えしぇ蔵小説集

福岡ESEグルメのえしぇ蔵の小説集です。それなりにがんばってるつもりです。

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千の灯火(ともしび) 第33回

 翌朝、眠い目をこすりながらホテルのフロントでチェックアウトし、朝の冷気が一層厳しい雷山へ戻って、初詣の人の様子を七時くらいまで取材した。そして北村住職と奥さんに新年の挨拶をした後、雷山を後にした。
 元旦の朝は車も少なかったので有料道路を使わずに走った。二〇二号線をひたすら東に走り、三号線にぶつかると左折して箱崎へ向かった。
 本屋の駐車場に着いた時はまだ八時半だった。福田さんはまだ寝ているだろうなと思い、しばらくそこで仮眠しようかと思ったが、もしかすると朝ごはんとして準備して待っているかもしれないと思い、一応電話だけはしてみることにした。
 呼び出し音が鳴るとすぐに受話器から彼女の声が聞こえた。
 「着きました?」
 「あれ、私ってわかるんですか?」
 「番号登録しときましたけん。意外と早かったですね」
 「早すぎたかなと思ったんですけど」
 「いいえ、準備はできとりますけん、どうぞどうぞ」
 俺は彼女の誘導で車を移動し、学生が住んでいそうな小さいマンションの彼女の部屋のドアの前に立った。呼び鈴を押すとすぐに中からドアが開いた。
 「どうぞー」
 「失礼します」
 部屋の中は雑煮のいい香りがした。故郷の正月を思い出すようだった。
 「いい匂いですねぇ」
 「今あたためよったとです。どうぞ座って下さい」
 マンションの小さい外観のわりには部屋の間取りは広かった。一人暮らしには十分以上と思われた。俺は大きな液晶テレビの前に置いてある低いテーブルの前に座った。後には柔らかそうな低いソファーがあり、そこに背をもたせかけるとかなりリラックスできた。
 テーブルの上には既に田作りや黒豆、お煮しめなどが並んでいた。お猪口まで置いてあった。
 「先に乾杯しまっしょ。お酒ありますけん。これ、上善如水。知っとるですか?おいしかですよ。これをお屠蘇がわりに・・・」
 彼女は小さい瓶に入った日本酒を俺の猪口に注いでくれた。自分のにも注ごうとしたので俺は慌ててその瓶をとって、彼女に酌をした。
 「じゃ、乾杯。あけましておめでとうございます」
 「おめでとうございます」
 一口目の酒は何も入っていない胃に気持ちよくしみていった。すっきりとした味が気に入って、何杯も重ねてしまった。
 「料理全部自分で作られたんですか?」
 「全部やなかですけど。黒豆とか作りきらんけん、実家から送って貰うとです」
 「実家は博多やないんですか?」
 「私生まれは綱場町です。でも親は引退してから引っ越して九重におります」
 「九重?いいとこですねぇ」
 「両親とも前から住みたいて言いよったとです。父親が退職金で九重に土地ば買うて好きな家建てて住んどります」
 「じゃぁ実家に帰る時はリゾート気分ですね」
 「家の周りは別荘ばっかりです」
 「ハイソな感じなんでしょうね」
 「でもシーズンオフはみんなおらんくなるけん、寂しいみたいですよ。あ、お雑煮持ってきますね」
 彼女はキッチンに戻り、あたたまったお雑煮を小さいお盆にのせてきた。
 「はい。うちのオリジナルの味です。博多の雑煮ともちょっと違いますけん」
 「いただきます」
 味わってみると、上品な薄味で九州人の俺にとっては新鮮だった。
 「おいしいですね、これなら何杯でも食べれそうです」
 「何杯でも食べて下さい。いっぱいありますけん」
 俺は夕べからろくなものを食べてなかったので調子に乗って三杯も食べてしまった。さすがにきまり悪くて、「すいません、あつかましくて・・・」と言ったら彼女はひどく嬉しそうな表情で、
 「いいえ、まずくてあんまり食べてもらえんかったらどうしょうか思うたけん、よかったです」
 と言った。
俺はその時久しぶりに安らぎというものを感じた。

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千の灯火(ともしび) 第32回

 境内のかがり火は冬の闇を押しのけていた。それが隅のほうにたまってしまったように、明りの届かない場所は余計に闇が深くなっていた。時計の針が十二時に近づく頃には参詣の人で足の踏み場もないくらいになった。
 俺は混雑から少し離れた場所からその様子を撮影した。住職のお弟子さんが除夜の鐘の準備のために仁王門の上に登って行くのが見えた。
 観音堂前の石段は上る人と下りる人の交差する列で埋まっていた。撮影ポイントを移動するのにも時間がかかった。
 北村住職や間須さんたちは忙しくて結局観音堂から下りないままだった。俺は一人であちこちと移動して撮影した。カメラを持つ手が冷たかった。
 観音堂の前から石段を見下ろすようなポジションから、参詣に来る人の群れを撮影していると、ファインダーの中にひと際白い顔が入った。福田さんだった。これで三度目なのでさすがに俺も遠田が言っていたことが本当かもしれないと思った。俺は話しかけるかどうかちょっと迷ったが、いずれ見つかるだろうと思い、彼女が石段の一番上に来た時に声をかけた。
 「福田さん!」
 「あ、内田さん、やっぱおんしゃった!」
 「私がいると思って来たんですか?」
 「どうせ初詣に行くつもりやったけん、ここなら内田さんもおるかなて思うて」
 「やっぱりストーカーされてますね。ははは」
 寒くて笑い声もどこか凍っていた。
 「内田さん、まだおるとでしょ?」
 「はい。もう少しいます」
 「ちょっとお参り済ませて来ますけん、待っとって下さい」
 彼女はそう言うと観音堂へと入って行った。
 参詣客は予想以上に多く、観音堂の中も人でいっぱいだったようで、彼女が出てくるのに少し時間がかかった。
 「すいません、お待たせしました。中もすごかですよ。コート着てたら暑いくらいでした」
 仁王門の方角から除夜の鐘が鳴り始めた。俺たちは人の波にもまれつつ石段を降りていった。灯火がともった石灯籠が並ぶ前で彼女が言った。
 「内田さんは取材終わったら帰らすとですか?」
 「いいえ、ホテルに仮眠に戻って、朝また戻ってきます。早朝の様子を少し取材して終わりです」
 「その後はなんか予定があるとですか?」
 「帰って寝るだけです」
 「それやったら・・・」
 彼女はここでちょっとためらった。その美しい横顔を揺れる石灯籠の灯火が照らしていた。高い鼻が印象的だった。
 「帰りにうちに寄らんですか?お雑煮ば食べに来らっさんですか?」
 「お雑煮ですか?いいですね。ご自宅はどちらなんですか?」
 「箱崎です」
 「お雑煮自分で作られるんですね。それともお母さんが?」
 「私、一人で住んどるとです。友達が正月に遊びに来る言うけん、張り切って作ったら、友達が来れんくなったとです」
 「そうですか。もったいないですね。じゃぁお言葉に甘えて寄らせていただきます」
 「ええ、是非どうぞ」
 俺を見上げる瞳は灯火を反射してオレンジ色に輝いていた。俺は一瞬、その美しさに魅了された。
 「えーと、住所を教えて下さい」
 俺は間が持てなくなって彼女に聞いた。
「箱崎の三号線沿いに明文堂っていう本屋さんがあるでしょ?」
 「はいはい、ありますね。たまに行きます」
 「あの本屋まで来たら携帯に電話して下さい。誘導しますけん。あそこからすぐです。私の携帯の番号は・・・」
 「あ、わかりますよ。パーティーで頂いた名刺に書いてあったのでいいんでしょ?」
 「そうです。そこに電話して下さい」
 「わかりました」
 「お屠蘇もありますけん、飲んで行ってください」
 「いや、車なんで・・・」
 「そがん、すぐ帰らんでもよかやなかですか。酒が冷めるまでおってもよかでしょ。なんも用事はなかとでしょ?」
 その誘い方が博多のおやじそのものだったので思わず笑いが出てしまった。
 「なんがおかしかとですか?」
 「いえ、べつに・・・」
 「私の博多弁ば笑いよらすとでしょ?治らんとですよ。どこに行っても出てしまうとです」
 「だめだめ、治したらだめですよ。どうか治さないで下さい」
 「治さんと内田さんに笑われるけん」
 「すいません。笑いませんから治さないで下さい。なんか福田さんの博多弁を聞くのが楽しみになってきました」
 「電話くれたらいつでも聞かしちゃぁですよ。あははは!」
 屈託のない彼女の笑い声は、山の冷気で凍えていた耳に気持ちよく響いた。
 「じゃぁ、待っときますけん」
 「ありがとうございます」
 彼女は「部屋掃除しとかな!」と独り言をもらしながら山門を抜けて行った。その姿はたとえようもなくかわいかった。

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千の灯火(ともしび) 第31回

 その年も終わりに近づき、会社は冬季休暇に入ったが、俺は一人で取材の準備をして、予約を入れている前原のビジネスホテルに向かった。大晦日の夜と元旦の早朝の千如寺の様子を取材するつもりだった。ホテルには除夜の鐘の取材の後に戻るのでおそらく深夜二時頃になるだろうと思った。そして早朝は五時には出ないといけない。わずか三時間ほどのホテルの利用だったが、多少でも仮眠をとっておいたほうがいいと思ったので部屋をとった。
 ホテルにチェックインすると、狭いシングルに通された。荷物を置いて窓のカーテンを開けると遠景に雷山が見えた。おそらく夜はかなり冷えるだろうと思ったので一枚余計に着込んだ。
 少し休憩してホテルを出たのが夜九時。まだ坂は凍結していないと電話で北村住職に聞いていたが、一応タイヤはスタッドレスに替えてきた。千如寺への道をゆっくり登ったが、まだ参詣の車はあまり見なかった。駐車場に車を止めて寺に入った。
 境内は雪には覆われていなかったが、冷たい空気が草木の動きを凍らせているようだった。ちらほらと参詣の人が肩をすくめて動いていた。葉をなくした大楓の姿は余計に体を冷すように感じた。
 「こんにちは・・・」
 俺は事務所のほうに声をかけた。すぐに「はい」という返事とともに住職の奥さんが出て来られた。
 「あ、お疲れ様です」
 「住職はお忙しいんでしょ?」
 「今、観音堂で準備しております。呼んできましょうか?」
 「いいえ、今日は大晦日の夜と元旦の朝の境内の様子を取材するだけなんで、どうぞお気遣いなく」
 「すいません。下りてきたら呼びますので。寒いので上がられて下さい。今お茶を出しますので」
 「すいません・・・」
 靴の底から伝わる寒さがきつかったので奥さんの申し出はありがたかった。俺は事務所に通され、猫が気持ち良さそうに寝ているソファの隙間に座った。
 ほどなく奥さんがお茶とお菓子を持って入って来た。
 「ここは寒いでしょ?まだ雪は振りませんけどだいぶ冷え込んだんで今年は参詣される方が少ないかもと話してたんです」
 「どうですかね?坂が凍結してないからまだいいんじゃないですか?」
 奥さんはお茶をのせてきたお盆を抱くようにして住職の作業机の前の椅子に腰掛けた。
 「そうですね。凍結したらもう、誰も来ません。ふふふ・・・完全に孤立しますよ」
 「四駆のスタッドレスじゃないと上がれないって住職言ってましたもんね」
 「凍結した日は静かですよ。境内に人の気配がなくて」
 「一回、そういう時に来てみたいですね」
 「雪が積もれば誰も来れないので今度積もったら来て下さい。ふもとで電話してもらえば住職が迎えに行きますので」
 「でもあつかましくてそんな・・・」
 「住職は内田さんが来るのすごく楽しみにしてますから喜びますよ。雪の日は暇になりますから逆に来て欲しいと思いますよ」
 奥さんは年齢を推測できない美しい笑顔を浮かべて言った。落ち着いた物腰は奈良時代から続く古刹の住職を支える人としての気品を備えていた。
 「仕事で雪の千如寺の写真も撮りたいので、今度雪が積もったらお邪魔します」
 「どうぞどうぞ。高尾さんと遠田さんもご一緒にどうぞ」
 「ありがとうございます」
 かすかな風が雨戸を動かしている音が聞こえた。俺は事務所の窓から境内を覗いたがまだ人の動きはまばらだった。
 「何時くらいから多くなりますか?」
 「だいたい十一時過ぎてからですね」
 「それから朝までにぎわいます?」
 「いいえ、二時過ぎたくらいに一端静かになります。そして朝六時くらいからまた多くなります」
 「じゃぁ、二時までいて朝五時半くらいにくればいいですね」
 「ホテルに泊まられるんですか?」
 「ええ。仮眠に戻るだけですけど」
 「年末年始もお仕事で大変ですね」
 「いえ、仕事してるほうが精神的に楽なんで」
 俺がそう言って笑うと奥さんの目に憐れみが浮かんだのがわかった。

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千の灯火(ともしび) 第30回

 十二月に入り、会社の中もどこか慌しくなってきた。俺は秋の紅葉の記事の校正と、大晦日の取材の準備のために、遠田を連れて図書館に来た。二階で向かいあってペンを走らせている時に、遠田が言った。
 「内田さん、大晦日の取材が終わった後はどうするんですか?帰省しないんですか?」
 「何も考えてないよ。家で寝るよ。遠田はどうすると?」
 「私、田舎に帰ります」
 「何日まで?」
 「多分、三日くらいまで。内田さんもちょっと帰ったらいいのに」
 「ひょっとしたら両親のほうが来るかもしれん。食糧を抱えて」
 「時々来られるんですか?」
 「うん。実家に畑があるけん、野菜とかどっさり持ってくるよ。自炊してるなら今度少し分けてやるよ。料理は得意?」
 「得意じゃないですけど、好きです。じゃぁ今度来たら少し下さい」
 「いいよ」
 俺はそこで席を立つと、宗教の棚に資料を探しに行った。膨大な数の書籍の中で、このコーナーだけは人が少なかった。どこか日本という国を象徴しているような気がした。だがそのほうが俺にとっては静かにゆっくり探せるので気が楽だった。
 ある本に興味深い箇所があったので立ったままそこで見入っていると、俺のいる場所の右手にあった窓のほうからの光がさえぎられた。誰かいるのかと見てみると女性がそこに立っていた。
 「内田さん、なんばしよらすとですか?」
 女性は光を背に逆行の状態で立っていたので誰だかすぐにはわからなかったが、博多弁を聞いてそれが「天神プランニング」の福田さんだとわかった。
 「あれ、福田さん、よく会いますね」
 「ほんとですね」
 「私のこと尾行してるでしょ?」
 俺が笑いながら言うと彼女は、「バレました?」と舌を出した。
 「私、内田さんのストーカーやとです。ずっと後をつけよるとです」
 「怖いですね」
 図書館なので俺たちは声をひそめるようにして笑った。
 「ほんとは仕事の調べ物に来たとです。内田さんもそうでしょ?」
 「はい」
 「私、記事の調べ物で時々来るけん、今までもどこかですれ違うたかもしれんですね」
 「そうですか。私は週一回くらい来ますよ」
 「今日は何を調べよぉとですか?」
 「こないだの千如寺ですよ。もうずっとこればっかりかかりきりです」
 「大仕事ですね」
 「ええ。会社も私も気合入れてます。あ、もしかしてスパイしてます?」
 「ふふふ、そんなの秘密でもなんでもなかですよ。瀬戸山課長がうちに来て世間話に社長に話しよらすけん」
 「なんだ、そうですか」
 彼女は声を出さずに笑っていた。
 「内田さん、一人ですか?」
 「いえ、弟子を一人連れてます」
 「弟子?」
 「ええ。新人なんですけど、今ライターの修行中です」
 「お弟子さんがおるとですか。私も内田さんに弟子入りしたかです。師匠は厳しいですか?」
 「厳しいですよ」
 俺がにやりと笑うと、彼女も同じような表情を作ったのが、俺には何か意味があるように思われたが、彼女はそこで、「じゃぁ、私帰りますけん。またどこかで会いまっしょ」と言うと、もと来た方向へ戻って行った。シルエットになった彼女の後姿は彼女のスタイルをきれいに表現していた。美しいラインだった。俺は小さく「お疲れ様でした」と声をかけた。
 宗教のコーナーで見つけた本を抱えて席に戻ると、うつむいて記事を書いていた遠田が急に顔を上げた。
 「今の人誰ですか?」
 「は?見とったと?」
 「私も本探しに行ったんですよ。そしたら仲良さそうに話してるし」
 「天神プランニングの社長秘書の福田さんよ」
 「あぁあの人がそうですか。きれいな人ですね」
 「うん。美人秘書で有名よ。富田社長のご自慢よ」
 俺は遠田の声がちょっとトーンが下がっているのに気付いた。
 「ここに何しに来てたんですか?」
 「同じよ。調べ物って」
 「ほんとですか?実は内田さんに会うために待ち伏せしてたんじゃないですか?」
 「するかいなそんなこと。まだ二回しか会ったことないんよ?」
 「二回?パーティー以外でどこかで会ったんですか?」
 「紅葉を撮影に行った時に千如寺で会ったよ」
 「その時は何しに来てたんですか?」
 「遊びに来てたみたい」
 「一人で?」
 「うん」
 「それも待ち伏せですよ。内田さん狙われてますよ」
 遠田の下がったトーンの意味がわかった。
 「なんで俺が千如寺に行くとか図書館に行くとかわかるわけ?どっちも偶然よ」
 「瀬戸山課長と富田社長は仲良しでしょ?そのルートから聞いたんですよ、きっと」
 「アホらしい。なんでそんなまわりくどいことをせんといかんの?」
 彼女はそれには答えず、「絶対そうですよ」とふてくされたようにつぶやいた。その表情を見ていると、女性の多いパーティーに出席して帰りが遅くなった時の千秋のことを思い出した。確かあんな感じですねていた。かわいい顔ですねていた・・・。

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千の灯火(ともしび) 第29回

 またあのいやな夢を見た。千秋が死んでから何度か見たあの夢を。
 俺は家族から「すぐにテレビを見ろ」と電話を受けて、仕事中のオフィスのテレビのスイッチを入れた。全部の局で航空機事故が報道されていた。便名は・・・まさか、まさか、千秋が乗った便か・・・まさか・・・。
 俺は課長に言ってすぐに空港に向かった。国際線ターミナルの一階に行くと、受付みたいに机が置かれていて、その前に人だかりが出来ていた。既に事故機に乗っていた人の家族が事情を聞くために集まっていた。航空会社の人間は何を質問されても答える材料がないらしく、ただ「現地からの情報を待っています」を繰り返していた。
 しゃがんで泣き崩れる女性、係員にけんか腰で詰め寄る男性、途方にくれたような老人、不安に押しつぶされそうな子ども・・・そこには悲しみが大きな集団を形成していた。福岡の街に均等に配置されていた悲しみが、その時だけこの一箇所に集中してきたような感じだった。俺は、「こんなところに俺がいるのは間違いだ、ここにいてはいけない」と内心思いつつ、ただその集団を少し外側から眺めて立っていた。
 係員の一人が近づいてきた。
 「ご家族の方ですか?」
 「・・・はい・・・」
 「事故機に乗ってらっしゃった方のお名前を教えて下さい」
 「ち・・・千秋です。内田千秋・・・」
 係員は名簿に目を通していた。
 「内田千秋さんですね・・・」
 係員の目が名簿の一箇所で止まると、
 「・・・乗ってらっしゃったようですね・・・こちらへどうぞ・・・」
 と一段低い声に変わって長テーブルのところに案内された。
 「ご連絡先を記入していただけますか?今捜索隊が現地で活動中ですので、なにかわかった場合にご連絡差し上げますので」
 「・・・わかりました・・・」
 俺はその時点でもまだどこか自分を取り戻していなかった。脳が現実を受け入れるのを拒否して正常に働いていなかった。名簿に記入しようとペンをとった。握ったペンの感触が俺を現実に引き戻した。その途端、俺の全身が細かく震え始めた。ペンを持つ手にも奮えが伝わり、字が書けなかった。指先が自分のものでないように安定しない。一字も書けない。どうしようかと焦るとなおさら書けなかった。横で係員が、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。俺はペンを置いて震えが止まるのを待った。だがいつまで待ってもそれは止まらなかった・・・。
 いつもここで目が覚めた。夢というより、あの人生最悪の光景の繰り返しだった。日中に仕事が忙しくて、珍しく俺の中に悲しみがよぎらなかった日も、夜この悪夢に襲われればまた俺はあの日の状態に引き戻された。
 あの瞬間に全てが終わった。たくさんの希望の灯火は、思いがけない強烈な突風によって一瞬に吹き消されてしまった。夢、幸福、思い出、努力、期待、希望、自由、喜び、優しさ、あたたかさ、楽しさ・・・全て消えた。全ての火は消えた。そして煌々と明るかった俺の内側は真っ暗になった。仕事で遅くなって帰って来た時の、あの千秋のいない家と同じように真っ暗になった。
 目が覚めた時に襲ってくる厭世観・・・これは何にも勝る耐え難い苦痛だった。自分が何のために今日を生きるのかがわからないことこそ、人間から力を奪うことはないだろう。それでも俺のまわりの社会は動き続ける。だから俺も動かなければならない。内側は真っ暗なまま、身体は機械的に動かしてその日のやるべきことをやる、話しかけてくる人には適当に応対する、そしてまた真っ暗の家に帰り・・・。
 夢を見ないように寝ることは不可能なのだろうかと考えた。思い切り疲れて寝れば見ないだろうか?睡眠薬は?酒は?
 唯一、周りの人間の優しさに応えるために、俺は最後の手段を思いとどまっていた。家族や同僚のために。だがそれも限界かもしれないと思い始めていた・・・。

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千の灯火(ともしび) 第28回

 「内田さんはライターの仕事されてどれくらいなるとですか?」
 彼女はまた博多弁で訊いてきた。
 「いや、まだそんなに長くはないですよ。ただ個人的に昔から史跡とか調べるのが好きでしたね。一人であちこちまわってましたよ。文章書くのも好きですしね」
 「じゃぁ天職ですね」
 「どうですか。まぁ好きですけど。あれ?ひょっとしたら私をスカウトしてます?」
 俺が冗談めかして言うと彼女は慌てて、
 「いえいえ、違います。そういう意味じゃなかとです」
 と打ち消した。
 「福田さんは今のお仕事好きですか?」
 「そうですね。社長が社交的やけん、いろんな人と会う時に同行するけんですね、出会いがたくさんあって楽しかです」
 「福田さんも社交的でしょ?そんな感じがする」
 「そうですね。結構誰とでも仲良くなれるタイプかもしれんです」
 「福田さんが人に好かれるのは多分その博多弁のせいですよ」
 俺は観音堂前の石段を降りながら、後にいる彼女を見上げて言うと彼女ははにかんだような表情をして言った。
 「そげん博多弁ですかね?」
 「いや、それがあなたの魅力だと私は思いますよ。その飾らないところが」
 俺がそう言うとはにかんだ彼女の表情が明るくなるのがわかった。俺は彼女の方言を誉めるつもりで言った。
 「私はですね、大学出てすぐの頃、何年か東京におったんですけど、東京で生活する時は標準語じゃないとおかしいて思って、無理に博多弁を使わんように気を使いましたよ。でも一緒に上京した友だちはずっと博多弁から抜け出れんで、『こいつ、恥ずかしくないとかいな?』と内心思ってましたけど、今思えば方言を使わんで地方出身ってことを隠そうとした自分のほうが恥ずかいです。方言は故郷の宝ですよね。関西の人とかはどこに行っても関西弁でとおす人が多いですけど、あれは誇りの表れですよね。私はあれでいいと思うんですよ」
 彼女はあの大きな瞳を輝かせてじっと聞いていた。
 「だから自分を飾らずに博多弁で話す福田さんは、その素朴さが受けてきっと人に好かれるんですよ」
 俺から意外な言葉をもらったというようなかすかな驚きを含む彼女の嬉しそうな表情は、返す言葉を探しているようだったがうまく見つからないようだった。
 「そ・・・そげん、ほめられたら・・・なんて言うていいかわからん・・・」
 「そげんもこげんもなかですばい」
 俺がそう言うと彼女は恥ずかしそうに笑った。大きな瞳が紅葉の木漏れ日を反射して光っていた。こんなきれいな瞳を見たのは初めてだった。
 「福田さんて目がきれいですよね」
 「私ですね、黒目の部分が大きいとです。なんでか知らんとですけど。多分それでそがん思われるとですよ」
 「あぁ、なるほど。黒い部分多いですね」
 俺がじっと観察するように目を見ると彼女は、「そがん見らんで下さい・・・」と慌てて視線を外した。どこにも飾り気のない素朴な仕草は俺には魅力的に感じた。
 「なんか、内田さんは口が上手やけん、だまされるばい」
 「だましてませんよ。思ったことそのまま言っただけです」
 俺たちは大楓のところに戻って来た。高尾は撮影が終わった様子で、機材を抱えて玄関のところで住職と話しながら俺の帰りを待っていた。
 「あ、終わっとったと?ごめん」
 「いや、今終わったとこ。あれ?なんや、デートしよったんか?」
 「天神プランニングの社長秘書の福田さんよ。たまたまそこで会ったんよ」
 高尾は、「『ちくし』のカメラマンの高尾です」と頭を下げた。
 「福田です。私、『ちくし』は読んどりますけん、内田さんの文章と高尾さんの写真はよぉ見てます」
 美人が思わぬ博多弁で返してきたので高尾もちょっと面食らっている様子だった。

 俺と高尾は住職に挨拶をして帰路についた。自分の車で来たという彼女ともそこで別れた。帰りの車内で高尾がやはり食いついてきた。
 「あの人ひょっとして課長が言ってた美人秘書か?」
 「そうそう。富田社長の秘書」
 「おぉ、あれじゃ評判にもなるわな。しかしあの博多弁にはまいったな。俺らの博多弁より強烈やもんな。あれは博多の年寄りの人が話す博多弁やな」
 「見た目とのギャップがいいやろ?」
 「うん。なんか逆にかわいいね」
 男は誰しもそういう印象を受けるらしい。

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千の灯火(ともしび) 第27回

 十一月に入った。心地よかった風は肌寒さを覚えるようになったが、日中は暖かい日もあり、朝晩と昼との気温差が大きかった。十一月にそういう日が続くと山では見事な紅葉が見れる。雷山千如寺の大楓も見事に染まっていた。
 俺は三脚を立てて熱心に撮影する高尾の後ろから大楓の染まり具合を頭の中で去年おととしと比べながら眺めていたが、そこに北村住職が作務衣姿で出て来た。
 「今年はすごいでしょ?」
 住職は点数のよかった答案用紙を親に見せるような、隠し切れない嬉しさが顔に表れていた。
 「こりゃ、カレンダーになりますよ」
 撮影しながら高尾が言った。
 「ええ、もう何社か申込みが来てます。明日あさってくらいに撮影に来るそうです」
 「間違いなくここ数年では一番見事ですね」
 俺が記憶をたどりつつ言うと住職も同じ意見だった。
 「いやぁ、私もここまで赤く染まったのは今まででほんと二、三回くらいじゃないかと思います」
 「寒暖の差が激しいのがよかったんでしょうね」
 「そうですね。うまいこと雨もそう降らないから落ちませんしね」
 撮影している俺たちの横を次々と参詣する人が過ぎて行く。その多くはしばらく足を止めてデジタルカメラで大楓を撮影していった。
 「参詣に来る人も例年よりかなり多いです。バスで来る団体客が多かったですからね。」
住職はそこでふと気付いたように、「今日は遠田さんは一緒に来られてないんですか?
」と聞いた。
 「はい。今日は会社で記事を書いてます」
 「もう仕事には慣れてこられたころでしょう?」
 「そうですね。十分役に立ちますよ。彼女は何に対しても一生懸命ですからね」
 住職の後の玄関から奥さんが顔を出して、「住職、お電話です」と声をかけた。住職は「はいはい。じゃぁどうぞゆっくりしていって下さい」と足早に玄関から中に入って行った。
 「高尾、まだ撮る?」
 「うん。心字庭園も撮るけん、もうちょっとかかる」
 「俺、ちょっとぶらぶらしてきていい?」
 「いいよ。退屈やろ?間須さんと遊んどき」
 「今日はまずいよ。間須さん珍しく忙しそうやし。じゃあと頼むね」
 俺は高尾を大楓のところに残して、参道を観音堂のほうに歩いていった。参詣客が多いのであまりゆっくりは歩けなかった。観音堂の正面の石段は両側の赤く染まった楓の葉に包まれていた。その石段を登りきって、観音堂には入らずに左に続く道に曲がって護摩道場のほうに行った。ここにも紅葉があったが、他よりは人が少なかった。俺は自分のデジタルカメラで形のいい木を見つけて撮影した。一人で夢中に撮影していると、後ろで人の気配がした。俺は他の人の撮影の邪魔になっていると思い、慌てて脇によけると、後に立っていた人と目があった。
 「あ、内田さんですか?」
 「はい・・・」
 俺も見た瞬間に見覚えのある顔だというのがわかったが、どこで見たかをすぐには思い出せなかった。俺が困っているのを察した彼女は言った。
 「イル・パラッツォのパーティーでお会いした福田です」
 「ああ、福田さん!失礼しました」
 「今日はお休みなんですか?」
 「いいえ、撮影の仕事でカメラマン連れて来たんですけど、撮影の間暇なんでぶらぶらしてました。お休みですか?」
 「はい。紅葉がえらいきれかて聞いたけんですね」
 相変わらずきれいな顔に似合わない博多弁で明るく話す彼女だった。
 「彼氏とデートがてらに?」
 「彼氏が今おらんとですよ・・・今日も一人で来ました。寂しか女やとです」
  彼女は人懐こい笑顔を返した。

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千の灯火(ともしび) 第26回

 食後に隣の「山ぼうし」でコーヒーを飲んだ。納屋を改造したこのカフェも長居したくなる心地よい雰囲気だった。
 かなりゆっくりしたのでお店を後にしたのは午後四時頃だった。遠田が買物をして帰りたいというので、途中スーパーに寄ったりした。彼女を自宅まで送り届けたのは午後五時半くらいだった。
 「すっごい楽しかったです。ありがとうございました」
 遠田は車を降りる時にそう言うとちょっと頭を下げた。照れを含んでいたが感謝の気持ちは伝わってきた。
 「うん。楽しかったね」
 「はい!また行きたいです」
 「・・・そうやね」
 我ながら微妙な返事をしてしまったが、遠田は気にするふうもなくドアを閉めて外から手を振っていた。俺は軽く手を挙げて挨拶を返すと天神に向かって車を走らせた。
 瀬戸山課長に出席を頼まれたパーティーは六時からということだったので今から行けばちょうどいい時間だと思った。
 日曜の午後の天神周辺は人も車も混雑していた。ようやくの思いでホテルの近くに百円パーキングを見つけて車を止めた。会場のイル・パラッツォに到着するとすでに百名以上はいるかと思える人たちで賑わっていた。
 立食パーティーだったので会場のあちこちで会話の輪が出来ていた。俺は天神プランニングの富田社長を探した。会場の一番上座にあたる部分でひときわ大きな輪が出来ていたが、その中心に富田社長はいた。俺は挨拶のタイミングを人の輪の外で待った。楽しげに話す富田社長のすぐ横に、背の高い女性が寄りそうように立っていた。きっとあの人が瀬戸山課長が言っていた美人秘書だろうと俺は推測した。大きな眼の澄んだ光が魅力的だった。ブラウスの白さが肌の白さを一層ひきたてていた。人前で話すのが苦手そうな清楚で上品な雰囲気を持っていたが、彼女が他の客と話す時にその印象は一転した。
 「なんば言いようとですか社長!もうそげんこつばっか言うけんすかんとですたい」
 博多弁丸出しで豪快に話すと大きな声で笑った。なるほど、そういうタイプかとちょっと俺は驚いた。
 「あれ?内田さんでしょ?『ちくし』の内田さんでしょ?」
 俺が彼女をぼーっと眺めている間抜けな顔を富田課長が見つけて話しかけてくれた。
 「あ、はい。内田です」
 「おぉ、久しぶりですね」
 「この度はおめでとうございます。瀬戸山がどうしても出席できず私が代わりにお邪魔しました。申し訳ありません」
 「いえいえ、瀬戸山から聞いとるけん、そんな気使わんで下さい」
 「しかし盛況ですね」
 「うん、おかげさまでたくさん来て頂きましたよ。あ、そうだ、紹介しときます」
 富田社長は横に立って俺と社長の会話を聞いていた博多弁の女性を見て言った。
 「秘書の福田です。いろいろ私が苦手な事務処理をやってくれてます」
 「『ちくし』のライターの内田です。よろしくお願いします」
 「福田です。よろしくお願いします」
 近くで見ると彼女の肌の白さが目に焼きつくようだった。
 「瀬戸山が言ってました。社長が美人秘書を雇ったからお前ちょっと見て来いって」
 「ははは!別に顔で選んだわけじゃないですけど、まわりにはえらい評判いいみたいです」
 社長に言われて彼女は立場がないように照れていた。
 「こないだ話した内田さんたい。歴史に詳しいライターさん」
 「はい。記事はよく読ませて頂いとります」
 ちょっとした受け答えにも博多弁が出るところが素朴で、彼女の飾り気のない内面を物語っていた。
 「恐縮です・・・」
 富田社長の俺を見る目がどうも意味ありげだった。俺は瀬戸山課長に報告しないといけないので美人秘書の印象を強く残そうとしばらくそこで立ち話を続けた。

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千の灯火(ともしび) 第25回

 もと来た道を同じように峠を越えて戻って、反対側のふもとに下りたところに「浮嶽茶寮」はあった。大きな古い民家を買い取って古さを残しつつうまく改築した、ノスタルジックな雰囲気のいいお店だった。俺はこの店を「千如寺」の北村住職の紹介で知って以来、数回足を運んでいた。地元でとれる野菜や魚を利用した懐石料理は、家庭の手作りの味の延長線上にあって、気張らずに食べることができた。作り手の思いが伝わる優しい味で、一度来れば誰しも二度、三度、と訪れたくなるような店だった。
 駐車場に車を止めて、昔の日本家屋独特の広い土間の玄関に入ると女将さんが出迎えてくれた。
 「いらっしゃいませ。内田さん久しぶりですね」
 「ご無沙汰してます」
 「こちらをご用意しています」
 女将さんは玄関のすぐ横の個室に案内してくれた。六畳の和室の真ん中が掘りごたつ状に穴が開いていて、座椅子にかけると膝を曲げずに座れるようになっていた。壁、襖、天井、床の間、どこも細かい配慮で上品に改装されていた。
 「うわー、こんなすごいところでお食事できるんですか?すごーい!」
 遠田は店の雰囲気にかなり感動している様子だった。
 「ここで食事したら帰りたくなくなりますよねきっと」
 「落ち着けるやろ?実際、帰りたくなくなるよ。俺もいつも長居してしまうよ」
 「でもお店ですからあんまり長く居れませんよね?」
 「大丈夫。ここは決まった組数しかとらんとよ。お昼もね、四時までおっていいとよ。中には昼寝して帰るような人もおるって」
 「へー、いいですね!じゃぁゆっくりできますね」
 「うん。今日は時間を気にする必要もないし、ゆっくり食べりぃ」
 「はい」
 彼女は窓から外を見ていたが、すぐ横に建っている納屋のようなものに気付いた。
 「あれはなんですか?」
 「昔の納屋よ。あっちもいい感じに改装されてるよ」
 「じゃぁあっちでも食べれるんですか?」
 「いや、カフェになってると。店の名前も違うよ。えーと・・・『山ぼうし』やったかな?いつも食事した後はそこに移動してお茶するんよ」
 「いいですね!後でお茶しましょう!」
 すっかり上機嫌になってはしゃぐ彼女の表情は子どものように混じり気のないものだった。透き通るように純粋な笑顔だった。
 最初の料理が運ばれてきた。女将さんの説明を聞いた後、食前酒で軽く乾杯。そして料理をじっくり味わいながら食べた。
 「優しい味がしますよね」
 「なんか作り手の客を思う優しさが味に出てるって感じやろ?」
 「ほんとそうですね」
 「おいしいけど、高級割烹みたいに気取ってないしね」
 「なんか食べてて身体が喜んでるのがわかります」
 「食べる人の健康に配慮して作ってあるけんね」
 遠田は一口づつを惜しむようにゆっくり食べて、料理の魅力を残らず舌で感じようとしているかのようだった。
 タイミングよく次の料理、次の料理と運ばれてきた。どれも感動を与えてくれる一品だった。遠田の感動が徐々に増していくのがわかった。
 「こんなおいしい店に内田さんはよく来るんですか?」
 「まぁたまにね。そんなしょっちゅうじゃないよ。ここは毎月旬の食材を使うけん、大幅にメニューがかわるんよ。だけん、季節ごとに来るかな。春夏秋冬。いつ来てもおいしいよ」
 「いいなぁ。私ここまた来たいです。でも一人じゃなぁ・・・方向音痴だし」
 「車運転できるやろうもん。有料道路下りて左に曲がるだけやん。大丈夫よ」
 「・・・」
 彼女は箸をくわえたままじっと俺の顔を見ていた。
 「なに?」
 「・・・」
 「・・・わかったよ。次も連れて来てやるよ」
 「やった!」
 どうも毎回うまいことやられてるような気がした。

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千の灯火(ともしび) 第24回

せせらぎの横を通る散策道は上へ上へと続いていた。登っていくのは結構大変だった。時々足を止めて深呼吸をすると、何かの花の匂いをかすかに感じた。。
今度は遠田が先に歩いた。元気に俺の前を登っていった。
「内田さん、貸していただいた横光利一、もうだいぶ読んでしまいましたよ」
「お、早いね。どうやった?」
「もう最高です。あの文章がいいですよね。なんかすごい繊細な感覚で」
「そうやろ?新感覚派やけんね。そう思って当然よ」
「ほんと、横光利一にはまるかもしれません」
「どれがよかった?」
「なんかしみじみじーんときたのは、『春は馬車に乗って』ですね。春は馬車に乗ってくる花売りの花でわかるなんて、素敵な発想ですよね」
時々遠田は振り返ると俺の同意を求める。
「うん。あれは文学的だよね」
「ストーリーは悲しいですけどね。主人公は奥さんが亡くなって・・・」
ここで遠田は自分の失敗に気付いたのか、後に続くセリフを忘れた下手な役者のように黙り込んでしまった。
「あれは実話をもとにしてるっちゅう話よ」
俺は彼女がかわいそうになって助け舟を出した。
「他には?どれがよかった?」
彼女は明るさを取り戻した。
「あとはですね、やっぱり『上海』ですかね?あれは傑作ですよね。それと『日輪』も好きです。どっちもなんか迫力ありますよね?」
「ああいうドラマ性の高いのも書けるってすごいよね。情緒的、文学的なものだけじゃなくてね」
「あんなすごい作家、なんで今まで読まなかったんだろう?私本好きなのに」
「しょうがないよ。だって売ってないもん、普通の本屋には。俺もあれは古本屋で見つけたんよ」
「どこの古本屋ですか?どこでもあるわけじゃないでしょ?」
「俺のよく行くのは香椎にある『あい書林』やけどね。あそこは文学作品が多いんよ」
「次に行く時誘って下さい」
「・・・いいよ」
「ほんとに?内田さんが私にする返事っていつも頼りないですよね?どうでもいいって思ってるでしょ?」
「そんなことないよ。今日もちゃんと遠田を喜ばそうといろいろ計画練ってきたんやけん。どうでもいいとか思ってないよ」
すねるような表情をしていた彼女はちょっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「どんな計画ですか?」
「お昼においしいもの食べさせてやるよ」
「どこでですか?なにをですか?」
「ここから同じ道をインターに戻る途中に『浮嶽茶寮』っていう和食のお店があるとよ。俺たまに行くんやけど、そこに連れてってやるけん。そこめっちゃおいしいよ」
「やったー!」
さっきまでのすねた表情が嘘のように明るくなって、彼女は元気にまた道を登り始めた。
川は上に行くほど小さく狭くなった。せせらぎで遊ぶ親子連れが二、三組いた。途中から上の道路に戻る道があったのでそこを登ると車を止めた駐車場のかなり上のほうに出た。そこからはアスファルトの道をぶらぶらと下りて入った。車は通らなかった。下から届く川の音しか聞こえなかった。遠田の後姿は笑っていた。

なんだか少し楽しいと俺は感じた。

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