えしぇ蔵小説集

福岡ESEグルメのえしぇ蔵の小説集です。それなりにがんばってるつもりです。

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千の灯火(ともしび) 第17回

 誰かが言った。最愛の人をなくした辛さは、その人の匂いが消えていく時に一番こたえると。確かにそうだと思った。俺は千秋のものは服もアクセサリーも何もかもそのままにしてあった。彼女のことを過去にしないためのささやかな抵抗と言えた。だが徐々に部屋から消えていく彼女の匂いはどうしようもなかった。彼女のパジャマも匂いがなくなればただのパジャマだ。愛用していた香水を部屋にふりまいたりしたが、それはただの香水の匂いであり、彼女の匂いではなかった。所詮は虚しいあがきでしかなかった。
 老夫婦が死に別れるなら、もうすぐ自分も行くからとあきらめられるかもしれないが、俺はまだ三十代、日本人の平均寿命から言えばまだあと三十年は生きるかもしれない。三十年!冗談じゃない。千秋なしで三十年など生きられるものではない。この一年だけでも苦しんでいるというのに・・・。
 セラピストが必要かもしれないと思った。だが通うのは面倒だ。誰か話を聞いてくれる人を家に呼ぶべきか?呼ばれたほうはいい迷惑だ。俺の苦しみを聞かされて。やっぱりやめようと思った。
 だんだん内にこもっていくような感じだった。よくない。こういうのはよくない。このままだと鬱になるぞ・・・。
 かつて千秋と二人でいろんな苦労を乗り越えて来たが、今思えばその時のつらさなど大したことではないと思えた。むしろいい思い出として記憶されていた。どんなことがあろうとも彼女がいれば頑張れた。彼女と一緒なら俺はなんでもできた。結局は俺一人ではたいしたことは何一つできなかった。人に支えられているというのは、その時には気付かないものだ。つっかえ棒はなくなった時に初めて慌てるものだ。
 彼女に貰ったメールは残しておいた。ほとんどは他愛のないものだ。「今日の帰りは何時?」「飲みすぎたらだめよ」「六時に博多駅ね」「パンジーが咲いたよ」・・・読み返すと今もらったような気がして返事を出したくなる。天国へのメール・・・。
 俺も千秋もあまりビデオというものに興味がなかったので彼女の映像を残していないのが悔やまれた。だが動いている彼女を見ることは余計つらいかもしれないから、それはそれでよかったのかもしれない。
 俺はだんだん痩せてきた。食事がいい加減というのもあったが、とにかく食欲というものがどこかに行ってしまった。生きるのに必要な分だけ吸収して過ごすという感じだった。これではよくない。ちゃんと作って食べないといけない。料理も千秋に習ったので少しは作れた。もしかして千秋はこういう事態を予想して俺に料理を教えていたのだろうか?彼女はよく仕事で出張したので、俺は自分で料理する機会が度々あった。俺が作る予定の料理を言っておくと彼女は出張に出かける前に材料を買っておいてくれた。そして必ず出発前の空港からメールが来た。「行ってきます。ちゃんと食べなだめよ」あぁ、千秋・・・今度の出張は長いな・・・。
 俺はきれい好きなほうだから、毎週末に全部の部屋を掃除した。彼女の仕事部屋はほとんど汚れなかった。誰もいないのだから当然だ。それでも一応、掃除した。彼女が帰って来た時にすぐに仕事ができるように。
 俺は何を考えているのだ!帰ってくるわけないだろう!くそ!あぁでも俺は彼女の死体は見ていない。洋上の航空機事故では全員の死体回収はまず無理だ。もしかすると助かったかもしれない・・・漂流しているところをどこか外国の船に助けられて・・・何度同じことを考えたろう?はかない希望か。もしそうなっているなら既に日本に連絡が来てニュースになっていることだろう。
 彼女は死んだのだ。俺はあきらめないといけないのだ。思い出を背負って残りの人生を消化しないといけないのだ。消化?そうだ。まさにこれは負けが決まったプロ野球の消化試合だ。優勝の望みは絶たれたのに試合はしないといけない。負けたからもういいだろうと残りをほっとくわけにはいかない。希望なきまま悲しさと虚しさを抱いてマウンドに立つか。悲劇的な展開だなと思った。
 俺は生物学的には生きていたが、精神的には死にかけていた。これは病気ではないので自分で治すしかなかった。自分で立ち直るしかなかった。俺は逆境には強いほうだとうぬぼれていた。どんなことでも乗り越えられると自負していた。だがこんな苦難が待っていようとは。こればっかりは難敵だ。頂上が見えない大きな大きな山だ。あぁこんな山を登れというのか?頂上まで三十年はかかりそうなこの山を、今から一歩一歩登って行けというのか?
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