えしぇ蔵小説集

福岡ESEグルメのえしぇ蔵の小説集です。それなりにがんばってるつもりです。

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千の灯火(ともしび) 第29回

 またあのいやな夢を見た。千秋が死んでから何度か見たあの夢を。
 俺は家族から「すぐにテレビを見ろ」と電話を受けて、仕事中のオフィスのテレビのスイッチを入れた。全部の局で航空機事故が報道されていた。便名は・・・まさか、まさか、千秋が乗った便か・・・まさか・・・。
 俺は課長に言ってすぐに空港に向かった。国際線ターミナルの一階に行くと、受付みたいに机が置かれていて、その前に人だかりが出来ていた。既に事故機に乗っていた人の家族が事情を聞くために集まっていた。航空会社の人間は何を質問されても答える材料がないらしく、ただ「現地からの情報を待っています」を繰り返していた。
 しゃがんで泣き崩れる女性、係員にけんか腰で詰め寄る男性、途方にくれたような老人、不安に押しつぶされそうな子ども・・・そこには悲しみが大きな集団を形成していた。福岡の街に均等に配置されていた悲しみが、その時だけこの一箇所に集中してきたような感じだった。俺は、「こんなところに俺がいるのは間違いだ、ここにいてはいけない」と内心思いつつ、ただその集団を少し外側から眺めて立っていた。
 係員の一人が近づいてきた。
 「ご家族の方ですか?」
 「・・・はい・・・」
 「事故機に乗ってらっしゃった方のお名前を教えて下さい」
 「ち・・・千秋です。内田千秋・・・」
 係員は名簿に目を通していた。
 「内田千秋さんですね・・・」
 係員の目が名簿の一箇所で止まると、
 「・・・乗ってらっしゃったようですね・・・こちらへどうぞ・・・」
 と一段低い声に変わって長テーブルのところに案内された。
 「ご連絡先を記入していただけますか?今捜索隊が現地で活動中ですので、なにかわかった場合にご連絡差し上げますので」
 「・・・わかりました・・・」
 俺はその時点でもまだどこか自分を取り戻していなかった。脳が現実を受け入れるのを拒否して正常に働いていなかった。名簿に記入しようとペンをとった。握ったペンの感触が俺を現実に引き戻した。その途端、俺の全身が細かく震え始めた。ペンを持つ手にも奮えが伝わり、字が書けなかった。指先が自分のものでないように安定しない。一字も書けない。どうしようかと焦るとなおさら書けなかった。横で係員が、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。俺はペンを置いて震えが止まるのを待った。だがいつまで待ってもそれは止まらなかった・・・。
 いつもここで目が覚めた。夢というより、あの人生最悪の光景の繰り返しだった。日中に仕事が忙しくて、珍しく俺の中に悲しみがよぎらなかった日も、夜この悪夢に襲われればまた俺はあの日の状態に引き戻された。
 あの瞬間に全てが終わった。たくさんの希望の灯火は、思いがけない強烈な突風によって一瞬に吹き消されてしまった。夢、幸福、思い出、努力、期待、希望、自由、喜び、優しさ、あたたかさ、楽しさ・・・全て消えた。全ての火は消えた。そして煌々と明るかった俺の内側は真っ暗になった。仕事で遅くなって帰って来た時の、あの千秋のいない家と同じように真っ暗になった。
 目が覚めた時に襲ってくる厭世観・・・これは何にも勝る耐え難い苦痛だった。自分が何のために今日を生きるのかがわからないことこそ、人間から力を奪うことはないだろう。それでも俺のまわりの社会は動き続ける。だから俺も動かなければならない。内側は真っ暗なまま、身体は機械的に動かしてその日のやるべきことをやる、話しかけてくる人には適当に応対する、そしてまた真っ暗の家に帰り・・・。
 夢を見ないように寝ることは不可能なのだろうかと考えた。思い切り疲れて寝れば見ないだろうか?睡眠薬は?酒は?
 唯一、周りの人間の優しさに応えるために、俺は最後の手段を思いとどまっていた。家族や同僚のために。だがそれも限界かもしれないと思い始めていた・・・。

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千の灯火(ともしび) 第28回

 「内田さんはライターの仕事されてどれくらいなるとですか?」
 彼女はまた博多弁で訊いてきた。
 「いや、まだそんなに長くはないですよ。ただ個人的に昔から史跡とか調べるのが好きでしたね。一人であちこちまわってましたよ。文章書くのも好きですしね」
 「じゃぁ天職ですね」
 「どうですか。まぁ好きですけど。あれ?ひょっとしたら私をスカウトしてます?」
 俺が冗談めかして言うと彼女は慌てて、
 「いえいえ、違います。そういう意味じゃなかとです」
 と打ち消した。
 「福田さんは今のお仕事好きですか?」
 「そうですね。社長が社交的やけん、いろんな人と会う時に同行するけんですね、出会いがたくさんあって楽しかです」
 「福田さんも社交的でしょ?そんな感じがする」
 「そうですね。結構誰とでも仲良くなれるタイプかもしれんです」
 「福田さんが人に好かれるのは多分その博多弁のせいですよ」
 俺は観音堂前の石段を降りながら、後にいる彼女を見上げて言うと彼女ははにかんだような表情をして言った。
 「そげん博多弁ですかね?」
 「いや、それがあなたの魅力だと私は思いますよ。その飾らないところが」
 俺がそう言うとはにかんだ彼女の表情が明るくなるのがわかった。俺は彼女の方言を誉めるつもりで言った。
 「私はですね、大学出てすぐの頃、何年か東京におったんですけど、東京で生活する時は標準語じゃないとおかしいて思って、無理に博多弁を使わんように気を使いましたよ。でも一緒に上京した友だちはずっと博多弁から抜け出れんで、『こいつ、恥ずかしくないとかいな?』と内心思ってましたけど、今思えば方言を使わんで地方出身ってことを隠そうとした自分のほうが恥ずかいです。方言は故郷の宝ですよね。関西の人とかはどこに行っても関西弁でとおす人が多いですけど、あれは誇りの表れですよね。私はあれでいいと思うんですよ」
 彼女はあの大きな瞳を輝かせてじっと聞いていた。
 「だから自分を飾らずに博多弁で話す福田さんは、その素朴さが受けてきっと人に好かれるんですよ」
 俺から意外な言葉をもらったというようなかすかな驚きを含む彼女の嬉しそうな表情は、返す言葉を探しているようだったがうまく見つからないようだった。
 「そ・・・そげん、ほめられたら・・・なんて言うていいかわからん・・・」
 「そげんもこげんもなかですばい」
 俺がそう言うと彼女は恥ずかしそうに笑った。大きな瞳が紅葉の木漏れ日を反射して光っていた。こんなきれいな瞳を見たのは初めてだった。
 「福田さんて目がきれいですよね」
 「私ですね、黒目の部分が大きいとです。なんでか知らんとですけど。多分それでそがん思われるとですよ」
 「あぁ、なるほど。黒い部分多いですね」
 俺がじっと観察するように目を見ると彼女は、「そがん見らんで下さい・・・」と慌てて視線を外した。どこにも飾り気のない素朴な仕草は俺には魅力的に感じた。
 「なんか、内田さんは口が上手やけん、だまされるばい」
 「だましてませんよ。思ったことそのまま言っただけです」
 俺たちは大楓のところに戻って来た。高尾は撮影が終わった様子で、機材を抱えて玄関のところで住職と話しながら俺の帰りを待っていた。
 「あ、終わっとったと?ごめん」
 「いや、今終わったとこ。あれ?なんや、デートしよったんか?」
 「天神プランニングの社長秘書の福田さんよ。たまたまそこで会ったんよ」
 高尾は、「『ちくし』のカメラマンの高尾です」と頭を下げた。
 「福田です。私、『ちくし』は読んどりますけん、内田さんの文章と高尾さんの写真はよぉ見てます」
 美人が思わぬ博多弁で返してきたので高尾もちょっと面食らっている様子だった。

 俺と高尾は住職に挨拶をして帰路についた。自分の車で来たという彼女ともそこで別れた。帰りの車内で高尾がやはり食いついてきた。
 「あの人ひょっとして課長が言ってた美人秘書か?」
 「そうそう。富田社長の秘書」
 「おぉ、あれじゃ評判にもなるわな。しかしあの博多弁にはまいったな。俺らの博多弁より強烈やもんな。あれは博多の年寄りの人が話す博多弁やな」
 「見た目とのギャップがいいやろ?」
 「うん。なんか逆にかわいいね」
 男は誰しもそういう印象を受けるらしい。

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千の灯火(ともしび) 第27回

 十一月に入った。心地よかった風は肌寒さを覚えるようになったが、日中は暖かい日もあり、朝晩と昼との気温差が大きかった。十一月にそういう日が続くと山では見事な紅葉が見れる。雷山千如寺の大楓も見事に染まっていた。
 俺は三脚を立てて熱心に撮影する高尾の後ろから大楓の染まり具合を頭の中で去年おととしと比べながら眺めていたが、そこに北村住職が作務衣姿で出て来た。
 「今年はすごいでしょ?」
 住職は点数のよかった答案用紙を親に見せるような、隠し切れない嬉しさが顔に表れていた。
 「こりゃ、カレンダーになりますよ」
 撮影しながら高尾が言った。
 「ええ、もう何社か申込みが来てます。明日あさってくらいに撮影に来るそうです」
 「間違いなくここ数年では一番見事ですね」
 俺が記憶をたどりつつ言うと住職も同じ意見だった。
 「いやぁ、私もここまで赤く染まったのは今まででほんと二、三回くらいじゃないかと思います」
 「寒暖の差が激しいのがよかったんでしょうね」
 「そうですね。うまいこと雨もそう降らないから落ちませんしね」
 撮影している俺たちの横を次々と参詣する人が過ぎて行く。その多くはしばらく足を止めてデジタルカメラで大楓を撮影していった。
 「参詣に来る人も例年よりかなり多いです。バスで来る団体客が多かったですからね。」
住職はそこでふと気付いたように、「今日は遠田さんは一緒に来られてないんですか?
」と聞いた。
 「はい。今日は会社で記事を書いてます」
 「もう仕事には慣れてこられたころでしょう?」
 「そうですね。十分役に立ちますよ。彼女は何に対しても一生懸命ですからね」
 住職の後の玄関から奥さんが顔を出して、「住職、お電話です」と声をかけた。住職は「はいはい。じゃぁどうぞゆっくりしていって下さい」と足早に玄関から中に入って行った。
 「高尾、まだ撮る?」
 「うん。心字庭園も撮るけん、もうちょっとかかる」
 「俺、ちょっとぶらぶらしてきていい?」
 「いいよ。退屈やろ?間須さんと遊んどき」
 「今日はまずいよ。間須さん珍しく忙しそうやし。じゃあと頼むね」
 俺は高尾を大楓のところに残して、参道を観音堂のほうに歩いていった。参詣客が多いのであまりゆっくりは歩けなかった。観音堂の正面の石段は両側の赤く染まった楓の葉に包まれていた。その石段を登りきって、観音堂には入らずに左に続く道に曲がって護摩道場のほうに行った。ここにも紅葉があったが、他よりは人が少なかった。俺は自分のデジタルカメラで形のいい木を見つけて撮影した。一人で夢中に撮影していると、後ろで人の気配がした。俺は他の人の撮影の邪魔になっていると思い、慌てて脇によけると、後に立っていた人と目があった。
 「あ、内田さんですか?」
 「はい・・・」
 俺も見た瞬間に見覚えのある顔だというのがわかったが、どこで見たかをすぐには思い出せなかった。俺が困っているのを察した彼女は言った。
 「イル・パラッツォのパーティーでお会いした福田です」
 「ああ、福田さん!失礼しました」
 「今日はお休みなんですか?」
 「いいえ、撮影の仕事でカメラマン連れて来たんですけど、撮影の間暇なんでぶらぶらしてました。お休みですか?」
 「はい。紅葉がえらいきれかて聞いたけんですね」
 相変わらずきれいな顔に似合わない博多弁で明るく話す彼女だった。
 「彼氏とデートがてらに?」
 「彼氏が今おらんとですよ・・・今日も一人で来ました。寂しか女やとです」
  彼女は人懐こい笑顔を返した。

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千の灯火(ともしび) 第26回

 食後に隣の「山ぼうし」でコーヒーを飲んだ。納屋を改造したこのカフェも長居したくなる心地よい雰囲気だった。
 かなりゆっくりしたのでお店を後にしたのは午後四時頃だった。遠田が買物をして帰りたいというので、途中スーパーに寄ったりした。彼女を自宅まで送り届けたのは午後五時半くらいだった。
 「すっごい楽しかったです。ありがとうございました」
 遠田は車を降りる時にそう言うとちょっと頭を下げた。照れを含んでいたが感謝の気持ちは伝わってきた。
 「うん。楽しかったね」
 「はい!また行きたいです」
 「・・・そうやね」
 我ながら微妙な返事をしてしまったが、遠田は気にするふうもなくドアを閉めて外から手を振っていた。俺は軽く手を挙げて挨拶を返すと天神に向かって車を走らせた。
 瀬戸山課長に出席を頼まれたパーティーは六時からということだったので今から行けばちょうどいい時間だと思った。
 日曜の午後の天神周辺は人も車も混雑していた。ようやくの思いでホテルの近くに百円パーキングを見つけて車を止めた。会場のイル・パラッツォに到着するとすでに百名以上はいるかと思える人たちで賑わっていた。
 立食パーティーだったので会場のあちこちで会話の輪が出来ていた。俺は天神プランニングの富田社長を探した。会場の一番上座にあたる部分でひときわ大きな輪が出来ていたが、その中心に富田社長はいた。俺は挨拶のタイミングを人の輪の外で待った。楽しげに話す富田社長のすぐ横に、背の高い女性が寄りそうように立っていた。きっとあの人が瀬戸山課長が言っていた美人秘書だろうと俺は推測した。大きな眼の澄んだ光が魅力的だった。ブラウスの白さが肌の白さを一層ひきたてていた。人前で話すのが苦手そうな清楚で上品な雰囲気を持っていたが、彼女が他の客と話す時にその印象は一転した。
 「なんば言いようとですか社長!もうそげんこつばっか言うけんすかんとですたい」
 博多弁丸出しで豪快に話すと大きな声で笑った。なるほど、そういうタイプかとちょっと俺は驚いた。
 「あれ?内田さんでしょ?『ちくし』の内田さんでしょ?」
 俺が彼女をぼーっと眺めている間抜けな顔を富田課長が見つけて話しかけてくれた。
 「あ、はい。内田です」
 「おぉ、久しぶりですね」
 「この度はおめでとうございます。瀬戸山がどうしても出席できず私が代わりにお邪魔しました。申し訳ありません」
 「いえいえ、瀬戸山から聞いとるけん、そんな気使わんで下さい」
 「しかし盛況ですね」
 「うん、おかげさまでたくさん来て頂きましたよ。あ、そうだ、紹介しときます」
 富田社長は横に立って俺と社長の会話を聞いていた博多弁の女性を見て言った。
 「秘書の福田です。いろいろ私が苦手な事務処理をやってくれてます」
 「『ちくし』のライターの内田です。よろしくお願いします」
 「福田です。よろしくお願いします」
 近くで見ると彼女の肌の白さが目に焼きつくようだった。
 「瀬戸山が言ってました。社長が美人秘書を雇ったからお前ちょっと見て来いって」
 「ははは!別に顔で選んだわけじゃないですけど、まわりにはえらい評判いいみたいです」
 社長に言われて彼女は立場がないように照れていた。
 「こないだ話した内田さんたい。歴史に詳しいライターさん」
 「はい。記事はよく読ませて頂いとります」
 ちょっとした受け答えにも博多弁が出るところが素朴で、彼女の飾り気のない内面を物語っていた。
 「恐縮です・・・」
 富田社長の俺を見る目がどうも意味ありげだった。俺は瀬戸山課長に報告しないといけないので美人秘書の印象を強く残そうとしばらくそこで立ち話を続けた。

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千の灯火(ともしび) 第25回

 もと来た道を同じように峠を越えて戻って、反対側のふもとに下りたところに「浮嶽茶寮」はあった。大きな古い民家を買い取って古さを残しつつうまく改築した、ノスタルジックな雰囲気のいいお店だった。俺はこの店を「千如寺」の北村住職の紹介で知って以来、数回足を運んでいた。地元でとれる野菜や魚を利用した懐石料理は、家庭の手作りの味の延長線上にあって、気張らずに食べることができた。作り手の思いが伝わる優しい味で、一度来れば誰しも二度、三度、と訪れたくなるような店だった。
 駐車場に車を止めて、昔の日本家屋独特の広い土間の玄関に入ると女将さんが出迎えてくれた。
 「いらっしゃいませ。内田さん久しぶりですね」
 「ご無沙汰してます」
 「こちらをご用意しています」
 女将さんは玄関のすぐ横の個室に案内してくれた。六畳の和室の真ん中が掘りごたつ状に穴が開いていて、座椅子にかけると膝を曲げずに座れるようになっていた。壁、襖、天井、床の間、どこも細かい配慮で上品に改装されていた。
 「うわー、こんなすごいところでお食事できるんですか?すごーい!」
 遠田は店の雰囲気にかなり感動している様子だった。
 「ここで食事したら帰りたくなくなりますよねきっと」
 「落ち着けるやろ?実際、帰りたくなくなるよ。俺もいつも長居してしまうよ」
 「でもお店ですからあんまり長く居れませんよね?」
 「大丈夫。ここは決まった組数しかとらんとよ。お昼もね、四時までおっていいとよ。中には昼寝して帰るような人もおるって」
 「へー、いいですね!じゃぁゆっくりできますね」
 「うん。今日は時間を気にする必要もないし、ゆっくり食べりぃ」
 「はい」
 彼女は窓から外を見ていたが、すぐ横に建っている納屋のようなものに気付いた。
 「あれはなんですか?」
 「昔の納屋よ。あっちもいい感じに改装されてるよ」
 「じゃぁあっちでも食べれるんですか?」
 「いや、カフェになってると。店の名前も違うよ。えーと・・・『山ぼうし』やったかな?いつも食事した後はそこに移動してお茶するんよ」
 「いいですね!後でお茶しましょう!」
 すっかり上機嫌になってはしゃぐ彼女の表情は子どものように混じり気のないものだった。透き通るように純粋な笑顔だった。
 最初の料理が運ばれてきた。女将さんの説明を聞いた後、食前酒で軽く乾杯。そして料理をじっくり味わいながら食べた。
 「優しい味がしますよね」
 「なんか作り手の客を思う優しさが味に出てるって感じやろ?」
 「ほんとそうですね」
 「おいしいけど、高級割烹みたいに気取ってないしね」
 「なんか食べてて身体が喜んでるのがわかります」
 「食べる人の健康に配慮して作ってあるけんね」
 遠田は一口づつを惜しむようにゆっくり食べて、料理の魅力を残らず舌で感じようとしているかのようだった。
 タイミングよく次の料理、次の料理と運ばれてきた。どれも感動を与えてくれる一品だった。遠田の感動が徐々に増していくのがわかった。
 「こんなおいしい店に内田さんはよく来るんですか?」
 「まぁたまにね。そんなしょっちゅうじゃないよ。ここは毎月旬の食材を使うけん、大幅にメニューがかわるんよ。だけん、季節ごとに来るかな。春夏秋冬。いつ来てもおいしいよ」
 「いいなぁ。私ここまた来たいです。でも一人じゃなぁ・・・方向音痴だし」
 「車運転できるやろうもん。有料道路下りて左に曲がるだけやん。大丈夫よ」
 「・・・」
 彼女は箸をくわえたままじっと俺の顔を見ていた。
 「なに?」
 「・・・」
 「・・・わかったよ。次も連れて来てやるよ」
 「やった!」
 どうも毎回うまいことやられてるような気がした。

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千の灯火(ともしび) 第24回

せせらぎの横を通る散策道は上へ上へと続いていた。登っていくのは結構大変だった。時々足を止めて深呼吸をすると、何かの花の匂いをかすかに感じた。。
今度は遠田が先に歩いた。元気に俺の前を登っていった。
「内田さん、貸していただいた横光利一、もうだいぶ読んでしまいましたよ」
「お、早いね。どうやった?」
「もう最高です。あの文章がいいですよね。なんかすごい繊細な感覚で」
「そうやろ?新感覚派やけんね。そう思って当然よ」
「ほんと、横光利一にはまるかもしれません」
「どれがよかった?」
「なんかしみじみじーんときたのは、『春は馬車に乗って』ですね。春は馬車に乗ってくる花売りの花でわかるなんて、素敵な発想ですよね」
時々遠田は振り返ると俺の同意を求める。
「うん。あれは文学的だよね」
「ストーリーは悲しいですけどね。主人公は奥さんが亡くなって・・・」
ここで遠田は自分の失敗に気付いたのか、後に続くセリフを忘れた下手な役者のように黙り込んでしまった。
「あれは実話をもとにしてるっちゅう話よ」
俺は彼女がかわいそうになって助け舟を出した。
「他には?どれがよかった?」
彼女は明るさを取り戻した。
「あとはですね、やっぱり『上海』ですかね?あれは傑作ですよね。それと『日輪』も好きです。どっちもなんか迫力ありますよね?」
「ああいうドラマ性の高いのも書けるってすごいよね。情緒的、文学的なものだけじゃなくてね」
「あんなすごい作家、なんで今まで読まなかったんだろう?私本好きなのに」
「しょうがないよ。だって売ってないもん、普通の本屋には。俺もあれは古本屋で見つけたんよ」
「どこの古本屋ですか?どこでもあるわけじゃないでしょ?」
「俺のよく行くのは香椎にある『あい書林』やけどね。あそこは文学作品が多いんよ」
「次に行く時誘って下さい」
「・・・いいよ」
「ほんとに?内田さんが私にする返事っていつも頼りないですよね?どうでもいいって思ってるでしょ?」
「そんなことないよ。今日もちゃんと遠田を喜ばそうといろいろ計画練ってきたんやけん。どうでもいいとか思ってないよ」
すねるような表情をしていた彼女はちょっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「どんな計画ですか?」
「お昼においしいもの食べさせてやるよ」
「どこでですか?なにをですか?」
「ここから同じ道をインターに戻る途中に『浮嶽茶寮』っていう和食のお店があるとよ。俺たまに行くんやけど、そこに連れてってやるけん。そこめっちゃおいしいよ」
「やったー!」
さっきまでのすねた表情が嘘のように明るくなって、彼女は元気にまた道を登り始めた。
川は上に行くほど小さく狭くなった。せせらぎで遊ぶ親子連れが二、三組いた。途中から上の道路に戻る道があったのでそこを登ると車を止めた駐車場のかなり上のほうに出た。そこからはアスファルトの道をぶらぶらと下りて入った。車は通らなかった。下から届く川の音しか聞こえなかった。遠田の後姿は笑っていた。

なんだか少し楽しいと俺は感じた。

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千の灯火(ともしび) 第23回

 七山村は川が流れる谷底の部分に家が密集していた。そこを過ぎて、下りてきた山と向かいあう山を少し登ると観音の滝があった。滝のまわりは散策道も整備され、大きな駐車場もありしっかりと観光地化されていた。
 駐車場に車を止めて、すぐ近くにある橋の上に彼女を連れて行った。そこからなら遠景に観音の滝が見えた。
 「結構、大きいんですね」
 「滝自体はそうでもないんやけど、この谷自体が迫力あるけん、なんかすごそうに見えるんよ。近くで見たら小さいよ」
 「どこから下りるんですか?」
 「すぐそこ。階段があるよ」
枝葉が生い茂って木漏れ日と葉風が心地いい道は、並んで歩くには狭かった。遠田は俺のすぐ後ろからついて来た。
「葉っぱで滑りそう・・・」
「転ぶなよ」
「私が転んだら内田さんも転びますよ」
「少し離れて歩いてよ」
「いやです」
彼女の楽しそうな声は葉陰から晴れた秋空へ抜けていくようだった。
「あ、見えた」
下り終わったところから滝の正面が見えた。
「空気がひんやりしてますね。涼しいですね」
周りの樹木の葉は水しぶきに濡れて光っていた。あきらかに上とは温度が違った。
「写真撮りたい・・・」
遠田は散策道からはずれて、岩をつたって滝の前に出ようとした。
「滑るなよ」
「大丈夫です」
「滑ったら、下流に流されていくよ」
不安定な姿勢でおそるおそる足場を探す彼女は俺のほうは見ないで、「私流されたらどうします?」と言った。
「流されたら?・・・先に帰る」
「ひどい!助けてくれないんですか?」
彼女の声は笑っていた。
「なんで助けてくれないんですか?」
「面倒くさいし」
そこで彼女は動きを止めてふくれっつらでこっちを見た。
「内田さんってなんでそう、私にドライなんですか?」
「俺、ドライかな?」
「ドライですよ」
「ドライなら一緒に七山村まで来んやろうもん」
「いいえ、ドライです」
顔をしかめる無邪気な彼女の表情は滝の近くにいたせいか、心和ませるものを感じさせてくれた。
「わかった。じゃぁどう言えばいいと?」
彼女は大きな岩を見つけるとそこに座って靴と靴下を脱ぎながら言った。
「そうですねぇ・・・『流されたら、俺が助けちゃるけん、大丈夫だよ』みたいな、優しさを感じるセリフが欲しいですねぇ」
「言えんよ。そんなくさいセリフ」
「好きな人には言うでしょう?」
「言わん、言わん。好きな人にも言わんよ」
「じゃぁ、ちょっと練習しましょう。何でもいいですから私が嬉しくなるようなこと言ってみて下さい」
「嬉しくなること?」
「そうです」
「・・・例えば?」
「それは自分で考えて下さい」
裸足になった遠田は水に足をつけた。
「つめた~い!気持ちいいですよ。ここからなら真正面に滝が見えますよ。すごーい」
「そうやって無邪気にはしゃぐところはかわいいと思うよ」
「お、言えたじゃないですか」
「そんなんで嬉しいわけ?」
「女の子はですね、些細な言葉で喜んだり落ち込んだりするのです。はい、内田さんも靴下脱いでここに座って下さい。そんなとこに立ってないで」
完全に彼女に主導権を握られつつあるのを感じた。
俺がそこに行くかどうか迷っていたら、彼女は「もう、手伝わないと靴下も脱げないんですか?」と立ち上がってこっちに歩こうとして、「あ!」と声を上げて倒れそうになった。
「大丈夫か!」
俺が思わず大きな声を出したら、彼女はすぐに体勢をもどしてにやっと笑った。
「今、心配しました?しましたよね?」
「・・・馬鹿」

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千の灯火(ともしび) 第22回

 日曜の朝、俺はいつものように軽い朝食を済ませると、カジュアルな服を着て財布と携帯電話だけを持って車に乗った。すぐに都市高速道路に入り、百道で下りた。日曜の朝で道が混んでいなかったせいか、自宅から三十分で遠田のマンションの前に着いた。
 携帯電話で呼び出そうとしたが、彼女は既にエントランスの前に立って待っていた。いつもより子どもっぽい服装になっている彼女がかわいかった。
 「おはようございます!」
 セリカのドアを開けて明るい声が先に車内に入って来た。
 「おはよう。ずっと立って待っとったと?」
 「ちょっと早く出過ぎました。今何時ですか?」
 「今まだ十時十分前よ。俺もちょっと早すぎたけん、ちょうどよかった」
 「道空いてたでしょ?」
 「空いとった。走っとって気持ちよかったよ」
 「でも夏場にホークスのナイターがある頃は、この辺は大渋滞ですよ」
 「あぁそうやろね。俺も何回か見に来たけど帰りは混むけん、負けそうな時は八回くらいで帰りよったもんね」
 彼女はシートベルトを締めると、好奇に満ちた目で俺のほうを見て、「どこに連れてってくれるんですか?」と言った。
 「七山村はどう?行ったことある?」
 「ないです。でもよく聞きますね」
 「きれいな滝があって、その横がかなり長い散策道になっとるんよ。そことか、あと面白いお店も結構あるし・・・」
 「いいですね!行きましょう行きましょう」
 仕事の時には見せたことのない、子どものようなはしゃぎようだった。ドライブに行く時に助手席で千秋がいつも見せてくれた無邪気な笑顔を思い出した。
 車をもう一度百道インターから都市高速道路に乗せて、そのまま西九州自動車道路に連絡して前原インターを降りた。左右に広がる前原ののどかな田園地帯はかつて千秋といつか住んでみたいと話していたあこがれの地だった。そこを過ぎると二丈町の海が右に見えてくる。秋晴れの太陽に照らされて輝く海は俺たちを歓迎してくれた。助手席で遠田は「天気良くなってよかったー」と何回かつぶやいた。
 途中から二丈・浜玉有料道路に入った。そして吉井インターで降りて山側に上って行った。ここから浮嶽を越えると七山村に出る。かなり急な山道をゆっくりと走らせて中腹あたりに来ると眺望が開けた。二丈の海が見えた。
 「すごーい!海まで見える」
 「霧が多い日に船の上からこの山を見たら霧の中に浮いて見えたから浮嶽っていう名前になったらしい。ほんとかどうか知らんけど」
 「へー、そうなんですか」
 窓を開けてしがみつくように彼女は海を眺めていた。
 吉井インターを降りてから峠を越えるまでゆっくり走ったのに、十五分くらいしかかかっていなかった。ゴルフ場の横を抜け、七山村側に下りて行った。
 「あとどれくらいですか?」
 「この山道を下り終わったら七山村よ。ほら、もう見えて来た」
 「あ、ほんと、一番底って感じですね」
 「ここは小さい村やけど、見所もいろいろあるし、いいお店も多いんよ。さっき言った滝のほかに、樫原湿原っていう湿地帯もあって、珍しい花が咲くんよ。そこもいいし、あと温泉もあるし、キャンプ場もあるし・・・結構楽しめるんよ」
 「へー、そのなんとかしつげん?そこも行きたいです」
 「そこはまた今度にしよう。サギソウはもう咲いてないやろうけん」
 「サギソウ?」
 「うん。白いきれいな花。確かそこでしか見れんちゃないかな?真夏に咲くけんね。もうないね」
 「じゃぁ、来年の夏に来ましょう。サギソウ見に。ね?」
 「俺が覚えてればね」
 「大丈夫。私が絶対覚えてますもん」
 「先のことはどうなるかわからんよ」
 「いいえ。先のことは自分で決めるんです」

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千の灯火(ともしび) 第21回

 熊本の美術展があった翌日、会社で瀬戸山課長に「ちょっと会議室に来てくれ」と呼ばれた。俺は書きかけの原稿をそのままに、瀬戸山課長に続いて会議室に入った。課長は椅子に座るとすぐに切り出してきた。
 「今週末の日曜日なんか予定ある?」
 「日曜日ですか・・・はい、ちょっと先約が・・・」
 ないと言ってもよかったが、前日の遠田の喜ぶ姿がよぎって言えなかった。
 「そうか・・・一時間くらいでいいんやけどね」
 「何があるんですか?」
 「天神プランニングの十周年記念パーティーがあるんよ。俺招待状もらったんやけど、どうしても行けんのよ。かわりに行ってもらえんかなと思って。義理を通すだけやけん、顔出すだけでいいんやけど、だめかいな?」
 「高尾じゃだめなんですか?」
 「高尾は日曜も撮影があるんよ」
 「何時からですか?」
 「夕方六時から十二時くらいまでだらだらやっとるって。立食やけん、ちょっと顔出して社長にお祝い言ってから帰ればいいんやけど」
 「それくらいでいいなら、大丈夫と思います」
 「お、助かる。ありがとう」
 「天神プランニングの社長はなんていう人でしたっけ?」
 「富田社長。会ったことはあるよね?」
 「あります。まだ三十代のやり手ですよね?」
 「そうそう。二十代の頃に独立して、あっという間に福岡じゃ有名な出版社にしてしまったやり手よ。最近はなんかえらいきれいな秘書を雇ったらしい。ついでに見てきたらいい」
 「じゃぁ適当にちょこっと顔出して挨拶してきます」
 「ありがとう。先方にも俺のかわりにお前が行くこと言っとくけん」
 遠田とのデートは夕方で切り上げて、彼女を送った後帰り道にパーティーに寄ればいいだろうと思った。
 「ところで、昨日はどうやった?」
 課長は一つ課題が片付いたというほっとした表情で、話題を変えた。
 「よかったですよ。九州のお寺にある仏像もなかなかすごいもんですね」
 「ほぉ」
 「学芸員さんに聞いたら、やっぱり門外不出が多くて出展を承諾してもらうのが一番大変やったみたいですよ」
 「なんで嫌がるとかいな?拝む対象がないと困るけんかな?」
 「それもあるでしょうけど、一番の理由は要するに搬出・搬入の時に傷をつけられるかもしれんからっていうことらしいですよ」
 「なるほどね」
 「千如寺の時も搬出はおおごとでしたからね」
 「保険には入っとるんやろ?」
 「入ってますけど、そういう問題でもないですしね。重要文化財ですし、宗教的なシンボルですからね」
 「そうやろうね。何百年も代々守ってきたものに傷をつけてしまったっていうのは先人に申し訳ないもんな。そういう搬出・搬入の時に傷がついてしまったっていうことあるんやろうか?」
 「何年か前に一度あったそうですよ」
 「千如寺で?」
 「ええ。二天像じゃなくてなんか別の仏像で。ほんのちょっとの傷やったそうですけど」
 「今回は全く問題なし?」
 「搬出と設置は問題なしです。後は美術展が終わって、千如寺に戻す時が問題ですね。また一日仕事ですよ」
 「運送会社も大変やな」
 「ですね。美術品専門スタッフですから慣れてはいるでしょうけどね。しかしあんなに毎回緊張する仕事してたら神経持ちませんね」
 「ほんとやな。肉体労働と神経労働と両方するわけやから、疲れるよね」
 課長は背伸びしながら、「あー俺はデスクワークだけでいいけんよかった・・・」と独り言のように言った。
 「仕事戻っていいですか?」
 俺がそう言って席を立つと課長は、
 「お、いいよ。じゃ日曜よろしくね」
 と言った。そして「わかりました」と言って会議室から出ようとした俺の背中に、「美人秘書もよぉーっと見て来て」と瀬戸山課長は浮いた声をかけた。

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千の灯火(ともしび) 第20回

 帰りの車の中で、高尾は後部座席で気持ち良さそうに眠っていた。一番活躍したから疲れはてた様子だった。遠田は助手席で何を見るともなしに窓外を眺めていた。
 俺は運転しながら美術展の様子をどんな記事にするか考えていたが、ふと思い出したように遠田が言った。
 「次の千如寺のイベントはなんですか?」
 「十月には大きなイベントはないよ。十一月になったら紅葉シーズンであの大楓が真っ赤になるけん、その頃に撮影に行くよ」
 「その次は?」
 「あとは、年末年始やね。大晦日の除夜の鐘から翌朝の初詣のようすまで取材するけど、これは俺だけでいいよ」
 「どうしてですか?」
 「みんな休みやけんたい」
 「内田さんは休まないんですか?」
 「俺はどうせ暇やし」
 「高尾さんは?」
 「高尾も休ませるよ。大した写真は必要ないけん、俺が自分で撮るよ」
 「大変ですね。お寺に泊まるんですか?」
 「いや、前原のビジネスホテルに泊まると思う。大晦日の除夜の鐘まで取材してから引揚げて、翌朝早くにまた戻ってくるつもり。ホテルには多分三時間くらいしかおらんかもね」
 「一人で大丈夫ですか?」
 「大丈夫、大丈夫」
 彼女はここで少し間を置いて、後部座席に眠っている高尾をちらっと見た後、改まった表情になって言った。
 「内田さん、ドライブはいつ連れてってくれるんですか?」
 「え?これじゃだめ?熊本往復ドライブ」
 「ダメですよ!これ仕事じゃないですか」
 頬を膨らませる彼女の表情はかわいかった。
 「冗談たい。えーと、そうやね、日曜しかないけど、俺いろいろ家事があるけんねぇ」
 「土曜日だけで終わらないんですか?」
 「いや、終わらんこともないけど・・・」
 「なんとかがんばって土曜日だけでいろいろ終わらせて下さい。今度の日曜日に行きましょうよ」
 助手席から迫るような勢いだった。もうここは観念しないとだめかなと俺もあきらめることにした。
 「わかったわかった。日曜はなんとか空けるようにするけん」
 「やった。絶対ですよ?」
 「うん」
 「ドタキャンは受け付けませんからね」
 「うん」
 彼女は両手のこぶしをぎゅっと握って小さなガッツポーズをつくった。その様子が旅行に連れて行ってもらうことが決まった子どもみたいでかわいかった。そして何かのノルマを達成したような満足した表情になった。
 しょうがない、一回連れて行けばそれで義理は果たすわけだから早く済ませてしまうほうがいいだろうと思った。
 太宰府インターから都市高速に入って、百道インターで下りた。遠田を自宅近くまで送り届けた。彼女は車を降りながら言った。
 「遠回りなのにすいません」
 「いいよ。どうせ高尾も送っていくし」
 「じゃ、約束忘れないで下さいね」
 「はいはい」
 彼女は満面の笑みでドアを閉めて手を振っていた。俺は車を高尾の自宅の方へ走らせた。遠田が車を降りる時の音で高尾は目を覚ましたようだった。
 「あ、もう着いた?」
 「よぉ寝とったね」
 「んーさすがに疲れたばい」
 「お疲れさん」
 伸びをしている体を急に止めて、高尾は後部座席から乗り出してきた。
 「お前、遠田とドライブすると?」
 「ありゃ、起きとったんか?」
 「いや、ちょうどその話の時だけ聞いとった。ドライブすると?」
 「せざるを得んね」
 「遠田は自分から誘いよったね。やっぱりね・・・」
 「なんがやっぱり?」
 「こないだ飲みに行った時もそうやったけど、あいつお前のこと好きよ。多分・・・っていうか間違いないと思う」
「どうかいな・・・」
 「俺のことは気にせんでいいけんな、俺はもう撤退したけん、お前、思う存分行け!」
 「今まだそんな気分になれんけん、一回ドライブするだけにしとく」
 「うわーもったいない・・・」
 高尾は大げさなしぐさでのけぞって後部座席に背をもたせかけた。
 そんな気分になれない?そんな気分てなんだろう?また人を好きになる気分?そんなのはもう想像すらできなかった。

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千の灯火(ともしび) 第19回

 二天像搬出から数日後、熊本の美術館で「九州の仏教芸術展」が開催された。例によって俺たち三人は取材に出かけた。初日だけは写真撮影OKということで、マスコミ関係者もかなり混じっていた。
 テープカットの際に、千如寺の北村住職も挨拶をした。そして熊本県知事をはじめ、数名の来賓の手によってテープカットされると、学芸員の説明が始まった。
 初日の開館前の時間に中を見れるのは関係者と来賓、そして俺たちマスコミだけ。しかも学芸員が直接説明してくれるのもこの時だけ。非常に貴重な機会なので俺は学芸員の説明を録音したいくらいだった。
 高尾は他のカメラマンとのポジション争いに忙しかった。限られた時間なのでひとつひとつ丁寧に撮っていくことはできない。これぞというのを選んで、すぐにポジションを決めて数枚づつ撮っていく。無駄口ひとつたたかないで走り回る高尾の真剣な姿は遠田には珍しく映ったようだった。
 俺はとにかくカタログを片手に学芸員の話のポイントを聞き漏らすまいと必死だった。展示品の番号を書いて、それに関するポイントだけをメモしていく。学芸員の人は何も見ないですらすらと説明した。大したもんだと思った。
 マナーをわきまえないで大声で話す輩もいて説明が聞こえない時もあったので、なるべく学芸員の近くにいるようにした。
一通り説明が終わって、ふと見ると隣にいたはずの遠田がいなかった。また戻って探してみると千如寺が出展した二天像の前で北村住職と話していた。
二天像は損傷もなく無事に設置されていた。千如寺で見るのとはまた違った感じがした。久しぶりに外に出て伸び伸びしているかのように、いつもより動きが明るく感じた。会場内には他にも持国天と多聞天の像が出展されていたが、比べてみるとかなり違うのが面白かった。時代や地方で作風が異なるらしい。職人の腕ももちろんあるだろう。作風の流行というものもあったらしい。当時でいう都会の京都・奈良と、遠く離れた田舎の九州とでは、流行の伝達も遅かったことだろう。
俺と遠田は先にロビーに出て高尾が戻るのを待った。十五分ほど遅れて、疲れた顔の高尾が会場から出てきた。
「やっと終わった・・・」
「お疲れさまです!」
遠田が高尾のカメラを受け取った。
「撮りたいものが多すぎ!どれもすごいけん。俺ここに一日おっても飽きんよ」
高尾はいい被写体に出会った時の満たされたカメラマンの表情になっていた。
「もうちょっと開館まで時間あるよ。まだ撮る?」
俺が言うと高尾は会場のほうを見て、「どうするかな・・・」とつぶやいていたが、すぐに、
「よし、もうちょっと撮ってくる。待っとって」
「いいよ。遠田とそのへん散歩してくる。三十分くらいしたらここに戻ってくるけん」
「よっしゃ。じゃ行ってくる」
高尾はまた遠田からカメラを受け取ると会場に戻って行った。
「じゃ、ちょっと外に行ってみるか」
と俺は遠田を連れて美術館の外に出た。心なしか遠田の表情が明るかった。俺たちは建物の横の通用口から表に出た。一面の芝生がまぶしかった。木陰を抜けてくる風が心地よかった。
「風は気持ちいいけど、日差しはまだ強いね」
「そうですね。この時期って意外と日焼けするんですよね」
「そう言うよね。この時期って運動会があるやんか。運動会の時って日焼けするもんね」
「内田さんの田舎も秋に運動会でした?」
「うん」
「私が行った小学校もそうでした。最近は春にするとこが多いですよね」
「そうやね」
芝生の感触がいいので思わず歩調がゆるくなった。遠田は木陰を選ぶように歩いていた。美術館のまわりは公園になっていたが、一面の芝生を囲むように木立が並んで、中央部分には木陰がなかった。俺たちは公園のふちをたどるように歩いた。
先を歩く遠田が時々振り返って微笑んだ。散歩が嬉しい様子だった。どうして女性は散歩が好きなのだろう?千秋もそうだった。よく二人で自宅の近くを散歩した。ただ話しをして歩くだけのこの行為に、女性は何かを得ているのであろう。
遠田の後姿を見て気付いた。彼女は少し髪を切っていた。

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千の灯火(ともしび) 第18回

 千如寺の二天像が搬出される日の朝、俺と高尾と遠田は必要な機材を準備して車に積み込み、雷山へと向かった。
 千如寺の二天像、持国天立像と多聞天立像は桧の寄木造りで、多聞天の体内から見つかった銘文によると正応四年(一二九一年)に造られたとされていた。鎌倉時代後期の九州の造仏の歴史を研究する上で非常に貴重なものとされていた。
 熊本の美術館で開催される美術展に出展するためにこの二天像は、福岡市博物館での展示以来、五年ぶりに千如寺を留守にすることになった。運送会社の美術品専門スタッフや博物館の学芸員の人が早朝から集まり、北村住職と入念な打ち合わせを済ませた後、搬出作業に入った。俺たちはその作業を横で取材した。下手に手伝うとミスを誘発するので俺たちは一切二天像には触らなかった。ここは高尾の独壇場で、照明に気を使いながらいろんな角度から撮影していた。
「そっち持っとかんか!」「ゆっくり動かせ!ゆっくり!」運送会社のスタッフの怒号が飛び交い、堂内は緊張した空気が張り詰めていた。
俺はその作業の様子を少しメモにとったり、高尾を手伝って照明を調節するくらいで他にあまりすることがなかった。それは遠田も同じで、彼女はじっと作業を見つめていた。
 重傷のけが人のように全身を包帯でぐるぐる巻きにされた像をスタッフ四人で特製の担架に乗せた。そしてゆっくりと観音堂の外へと運び出した。無事にトラックに載せ終わるまで実に半日かかる作業だった。まだそれから会場へ運んで今度は設置作業が待っているが、とりあえずここで一息という安心感がスタッフの表情に見られた。
 「なんとか、搬出までは無事終わりました。ちょっと安心しました」
 トラックを見送った後、観音堂に戻って来た北村住職は額の汗をぬぐいながら言った。
 「一山越えた感じですね。会場での設置がまた一苦労ですね」
 ただ見ているしかできなかった負い目を感じつつ、住職の心労をねぎらう意味で俺が言うと住職は大きなため息をして、
 「そうですね。会場での設置には私は立ち会えないんで、後は任せるしかないですね。」
 と言った。
 「毎度のことですけど、うちにある仏像を何かに出展するために搬出する時は、小さい子どもを一人旅に出すみたいで、心配ですね。だから無事に帰って来た時には本当にほっとします」
 「そうでしょうね・・・」
 相槌を打つ俺の表情から少し明るさが引いたのを住職に気付かれなかったろうかと少し焦った。大事なものが自分のもとから離れて、そして無事に帰って来る。ただそれだけのことがなんと幸せなことか・・・。
 遠田は高尾を手伝って照明器具を片付けていた。俺は高尾に聞いてみた。
 「いいの撮れた?」
 「まぁ大丈夫やろう。今見た感じではよかったみたいや」
 撮影はデジタルカメラを使うので撮ったその場で出来がわかる。俺は「ちょっと見せて」とカメラを高尾に借りてモニターを見てみた。いい感じに撮れていた。
 「いいやん。バッチリや」
 「しかしここは光がとりにくいけん、苦労した」
 「照明強いの持って来て正解やったやん」
 「そうやね」
 俺たちが話している横を間須さんが通り過ぎようとして、照明のコードに足をひっかけて転ぶフリをした。
 「またそんな転ぶふりとかして」
 俺がからかうと間須さんは大げさに、「あぁびっくりした。転んで大怪我するところでした」と言った。
 「そんなんで転んで誰も大怪我なんかしませんよ」
 「どうも内田さんの近くに来るとろくなことがない・・・」
 横で遠田が笑っていた。
 「あれ?」
 ふと、高尾が耳をすませるようなしぐさをした。
 「どうしました?」
 間須さんも動きを止めて耳をすませた。
 「今、下のほうで住職の声がしましたよ。間須くーんって叫んでましたよ」
 「ほんとに?」
 間須さんは慌てて戻っていったが、その時によく磨かれた観音堂の縁側で滑って、本当に転びそうになったので、それを見て俺たち三人は笑い転げた。

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千の灯火(ともしび) 第17回

 誰かが言った。最愛の人をなくした辛さは、その人の匂いが消えていく時に一番こたえると。確かにそうだと思った。俺は千秋のものは服もアクセサリーも何もかもそのままにしてあった。彼女のことを過去にしないためのささやかな抵抗と言えた。だが徐々に部屋から消えていく彼女の匂いはどうしようもなかった。彼女のパジャマも匂いがなくなればただのパジャマだ。愛用していた香水を部屋にふりまいたりしたが、それはただの香水の匂いであり、彼女の匂いではなかった。所詮は虚しいあがきでしかなかった。
 老夫婦が死に別れるなら、もうすぐ自分も行くからとあきらめられるかもしれないが、俺はまだ三十代、日本人の平均寿命から言えばまだあと三十年は生きるかもしれない。三十年!冗談じゃない。千秋なしで三十年など生きられるものではない。この一年だけでも苦しんでいるというのに・・・。
 セラピストが必要かもしれないと思った。だが通うのは面倒だ。誰か話を聞いてくれる人を家に呼ぶべきか?呼ばれたほうはいい迷惑だ。俺の苦しみを聞かされて。やっぱりやめようと思った。
 だんだん内にこもっていくような感じだった。よくない。こういうのはよくない。このままだと鬱になるぞ・・・。
 かつて千秋と二人でいろんな苦労を乗り越えて来たが、今思えばその時のつらさなど大したことではないと思えた。むしろいい思い出として記憶されていた。どんなことがあろうとも彼女がいれば頑張れた。彼女と一緒なら俺はなんでもできた。結局は俺一人ではたいしたことは何一つできなかった。人に支えられているというのは、その時には気付かないものだ。つっかえ棒はなくなった時に初めて慌てるものだ。
 彼女に貰ったメールは残しておいた。ほとんどは他愛のないものだ。「今日の帰りは何時?」「飲みすぎたらだめよ」「六時に博多駅ね」「パンジーが咲いたよ」・・・読み返すと今もらったような気がして返事を出したくなる。天国へのメール・・・。
 俺も千秋もあまりビデオというものに興味がなかったので彼女の映像を残していないのが悔やまれた。だが動いている彼女を見ることは余計つらいかもしれないから、それはそれでよかったのかもしれない。
 俺はだんだん痩せてきた。食事がいい加減というのもあったが、とにかく食欲というものがどこかに行ってしまった。生きるのに必要な分だけ吸収して過ごすという感じだった。これではよくない。ちゃんと作って食べないといけない。料理も千秋に習ったので少しは作れた。もしかして千秋はこういう事態を予想して俺に料理を教えていたのだろうか?彼女はよく仕事で出張したので、俺は自分で料理する機会が度々あった。俺が作る予定の料理を言っておくと彼女は出張に出かける前に材料を買っておいてくれた。そして必ず出発前の空港からメールが来た。「行ってきます。ちゃんと食べなだめよ」あぁ、千秋・・・今度の出張は長いな・・・。
 俺はきれい好きなほうだから、毎週末に全部の部屋を掃除した。彼女の仕事部屋はほとんど汚れなかった。誰もいないのだから当然だ。それでも一応、掃除した。彼女が帰って来た時にすぐに仕事ができるように。
 俺は何を考えているのだ!帰ってくるわけないだろう!くそ!あぁでも俺は彼女の死体は見ていない。洋上の航空機事故では全員の死体回収はまず無理だ。もしかすると助かったかもしれない・・・漂流しているところをどこか外国の船に助けられて・・・何度同じことを考えたろう?はかない希望か。もしそうなっているなら既に日本に連絡が来てニュースになっていることだろう。
 彼女は死んだのだ。俺はあきらめないといけないのだ。思い出を背負って残りの人生を消化しないといけないのだ。消化?そうだ。まさにこれは負けが決まったプロ野球の消化試合だ。優勝の望みは絶たれたのに試合はしないといけない。負けたからもういいだろうと残りをほっとくわけにはいかない。希望なきまま悲しさと虚しさを抱いてマウンドに立つか。悲劇的な展開だなと思った。
 俺は生物学的には生きていたが、精神的には死にかけていた。これは病気ではないので自分で治すしかなかった。自分で立ち直るしかなかった。俺は逆境には強いほうだとうぬぼれていた。どんなことでも乗り越えられると自負していた。だがこんな苦難が待っていようとは。こればっかりは難敵だ。頂上が見えない大きな大きな山だ。あぁこんな山を登れというのか?頂上まで三十年はかかりそうなこの山を、今から一歩一歩登って行けというのか?

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千の灯火(ともしび) 第16回

 月曜日の朝七時に誰もいないオフィスに着いて、一人で記事を書き始めた。やはり朝は頭がさえているので集中できた。しばらくは誰も来ないだろうと思っていたら、三十分ほどして表のドアが開く音がした。誰かと思えば遠田だった。
 「あれ?おはようございます。早いですね」
 遠田は小脇に本を抱えていた。まだ眠そうな顔をしている彼女はどこかあどけなかった。
 「遠田こそ早いたい。どうしたと?」
 「私最近この時間ですよ」
 「そうなん?なんで?」
 「勉強してるんです。えらいでしょ?」
 「なんの勉強?」
 「千如寺の仕事に入ってからずっと仏教芸術のこととか、いろいろ調べてるんです。個人的にも興味があるし」
 今時ちょっと見ない真面目なやつだなと思った。意外に頼もしいかもしれない。
 「すごいやん。仏教芸術に見せられてしまったか」
 「はい。だから千如寺の二天像が出展される熊本の美術展がすごい楽しみで・・・」
 そこで彼女の表情は急に俺の反応をうかがうように謙虚になった。
 「あの・・・私も取材行けるんですよね?」
 「もちろん。来てもらわにゃ困るよ」
 「よかった!がんばりまーす!」
 爽やかな声を残して彼女がロッカールームに入りそうになった時、俺は彼女に本を持って来たことを思い出して呼び止めた。
 「あ、遠田、本持って来たよ」
 「え?何の本ですか?」
 「横光利一。前に読みたいって言いよったやろ?」
 「覚えててくれたんですか?やったー!」
 「手っ取り早いけん、全集を持って来た。これなら代表作があらかた入ってるし。横光利一の魅力は十分堪能できると思うよ」
 彼女は俺が思ったよりも嬉しそうな表情で近づいて来て本を受け取った。そして胸にしっかりと抱いて、「大事に読みます」と言った眼は少し感動すら帯びていた。なにもそこまでとは思ったが、喜んでもらえて俺も嬉しかった。
 「ちょっと着替えてきます。何か手伝うことあったら言って下さいね」
 「うん。ありがとう」
 朝日が差す静かなオフィスを歩く彼女の足取りは軽かった。
 俺はまた書きかけの記事に目を戻したが、次に何を書こうとしていたか忘れてしまった。指先でペンをまわしながら考えても思い出せない。思い出そうとしても頭の中になにかがあって邪魔をする。なんだろう?いや、実は自分でもわかっていた。邪魔をしているのは、本を受け取った時の遠田の表情だった。あの無邪気な、嬉しそうな、感動も帯びた表情が妙に心に焼きついて残った。それが俺の思考を邪魔していた。
 ロッカールームから戻ってきた彼女は、俺の机の向い側に座った。
 「土曜日ですね、高尾さんと雄屋行ったんですよ。おいしかったー!」
 「あの店おいしいやろ?俺もあそこばっかり」
 「何でもおいしいですよね?」
 「かき揚げ食べた?」
 「食べました!おいしかったー!」
 「何飲んだと?」
 「日本酒です。高尾さんが日本酒がうまいって言われたんで」
 「日本酒いいのばっかり置いとったろ?」
 「はい。二種類飲みました。どっちもおいしかったです」
 「だいぶ飲んだっちゃない?」
 「飲みました。でも次の日はすっきりでしたよ。悪酔いしませんでした。お酒がいいからですかね?」
 「そうよ。日本酒もワインも焼酎もいいのは悪酔いせんよ」
 「昨日は何も予定なかったんで、悪酔いしても別によかったんですけど。内田さんは昨日何してたんですか?何か用事あったんでしょ?ドライブできない用事が」
 彼女はちょっとすねたような表情で上目使いに俺を見た。
 「用事っていうか、いろいろ雑用がね。一人やけん休みの日は主婦にならないけんと。忙しいとよ」
 彼女の表情からさっと暖かいものが消えていくのがわかった。そして悪いことを聞いてしまったという暗い影がさした。そして一言「そっか・・・」と小さな声でつぶやいた。

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千の灯火(ともしび) 第15回

 千秋が天に召されて以来、休日が来るのもつらいものがあった。俺と千秋は休みのたびに出かけていた。ドライブしたり、山に登ったり、天神をブラついたり、映画を見たり。それが今では掃除、洗濯、買い物、アイロン・・・家事に追われた。うちの会社は土日が休みだったが、そのうちの一日は家事で追われた。面倒くさいがしょうがなかった。何もしないでいると今度は想い出が襲ってきた。これが結構きつかった。家のどこかに千秋がいて、なにかごそごそと家事をやっているような錯覚に陥ることがたびたびあった。そしてなにか用事を頼もうと千秋を呼びそうになってふっと気付く。つらいのはその次の瞬間だ。津波のように悲しみが押し寄せてきて、すぐにぽろぽろと涙が落ちた。本当に簡単に涙が出てくるようになっていた。
 朝もつらい。夜もつらい。休日もつらい。平日の昼間の仕事中だけ、なんとか普通に生きられる。こんな状態をいつまで続けないといけないのだろうか?何度も浮かぶ疑問に答えを見出せず、ただため息ばかりついていた。
 日曜日。もろもろの家事を終えて、本でも読もうと二階の本棚の前に立った時にふと思い出した。遠田に横光利一の本を貸す約束をしていたことを。俺は横光利一の全集をとって、忘れないように机の上に置いた。そして自分の読む本を持って一階の居間のソファに腰をおろしたところで、携帯電話がなった。高尾からだった。
 「おう、どうやった?」
 「うん・・・」
 「あ、返事が芳しくないね。あんまり盛り上がらんかった?」
 「いや、べつにそういうわけじゃないけど・・・」
 「そうなん?じゃよかったやん」
 「いやいや、よくないんよ。どうもね、脈はないね、俺は下りるよ。撤退撤退」
 高尾の声には少しはにかんだような笑いが混じっていた。
 「撤退するけん、内田が行け」
 「なんで脈がないてわかると?」
 「夕べの俺たちの会話の三分のニはお前の話題やったよ」
 心の中を冷たいものが触れていった。
 「・・・千秋のことか?」
 「ん・・・それもあるけど、とにかくお前のことばっかり質問されたよ」
 「遠田は千秋の事故のこととか全部知っとると?」
 「うん。俺が説明するまでもなく、ほとんど瀬戸山課長に聞いて知っとったよ。多分課長は遠田がお前にいらん質問とかせんように先手を打ったんやろうと思うけどね」
 「遠田は俺の私生活のこと今まで全然聞かんかったもんね。そうか。やっぱりね。何か言いよった?」
 「かわいそう、かわいそうって。泣きよったよ。居酒屋で二人だけで飲みよる時に泣かれたけん、ちょっとあせったよ。ははは」
 高尾の笑い声は乾いていた。
 「俺が思うに、遠田はお前のことが好きなんやろうね。そんな感じがするよ。ただ単に同情を寄せてるっちゅうわけじゃなさそうよ」
 「そうか・・・」
 「まぁ、多分、まだそういう気持ちにはなれんやろうけどさ、誰かそばにおったほうがいいんやないか?」
 「うん・・・」
 「ま、俺の報告はそういうことよ。今週は千如寺いつ行くと?」
 「木曜日に二天像の搬出があるけん」
 「了解。朝から行くと?」
 「うん。十時には先方に入るよ。照明とか全部持って来て」
 「あいよ。そんじゃね」
 「うん」
 いつもなら高尾の陽気な声を聞くと元気をもらうのに、その時は電話を切った後に複雑な思いが残った。遠田が俺のことを聞いて泣いていたというのをどう受け取っていいのか?知り合ってまだ一ヵ月にもならないのに、身の上話を聞いて泣くほど悲しくなるものか?ただ繊細なだけか?
 どうでもいいことだと思った。自分の面倒をみるので精一杯だった。俺は思考を晩飯のおかずに切り替えた。何にしようか?自分のまずい料理を食べるのにはうんざりしていた。自分のために作った料理に愛は入っていない。まずいのはそのせいだろうと思った。

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