えしぇ蔵小説集

福岡ESEグルメのえしぇ蔵の小説集です。それなりにがんばってるつもりです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第14回

 翌日、会社で原稿をまとめていると、高尾が俺の机の前をにやにやと笑いながら通り過ぎて行った。どうも気になる笑い方だった。きっと遠田を誘うのに成功したに違いない。他の人の目もあるのでメールで聞いてみた。
 “なんや?その笑い。誘うのに成功したか?”
 すぐに返事が来た。話したくてうずうずしているのが文字から伝わってきた。
 “成功した”
 “どこに行くことにした?”
 “土曜日に大名の雄屋(たけや)に連れて行く”
 “そうか。よかったやん”
 “すぐOKしたけん、逆になんか拍子抜けした”
 “頑張れよ。彼女も今は一人みたいやし”
 “おうよ!頑張るけん。日曜にメールで報告するけん”
 日曜?俺は日曜に何か用事があったような気がしたが思い出せなかった。
 ここで瀬戸山課長が近づいて来たのでメールは中断した。
 「今月末の熊本の美術展の話聞いた?」
 「あ、二天像の件でしょ?和尚さんからメールが来ました」
 「運び出す日と美術展の初日は取材に行くやろ?」
 「行きます」
 「高尾も行ったがいいね」
 「はい。美術展の日も高尾の写真がいります。初日だけは撮影OKですから」
 「了解。高尾に言っとく」
 「いいですよ。俺が言っときます」
 瀬戸山課長が離れていくと、また高尾にメールした。
 “月末に熊本で美術展があるけん、よろしく。千如寺の二天像が出展されるけん”
 “あいよ。”
 “運び出す日も撮影するよ”
 “あいよ。”
 ここでふっと思い出した。日曜!遠田がドライブにどうですかと言ってた日だ。高尾が誘う日の翌日に行くのもなんか非情な気がした。とりあえず日曜は空いてないことにしておこうと思った。
 そういえば彼女が見当たらなかった。昨日の暗い表情がちょっと気になった。俺は席を立って瀬戸山課長の机に行って聞いてみた。
 「今日、遠田休みですか?」
 「いや、さっき高尾が連れて出かけよったよ。内田には俺から言っておきますて言いよったけど、聞いてないと?」
 「え?そうですか。いや、別に彼女がおらんでも構わんのですけど」
 「どうや?あの子はちゃんとやりよるか?」
 「はい。仏教芸術に興味持ったみたいですよ。昨日も千如寺で面白そうに仏像眺めてましたよ」
 「そうか。あの子にも記事書かせるか?」
 「仏教行事のこととか、少し書かせてみようかなと思います。私が後で修正するんで、まずは彼女なりに書かせてみます」
 「うん。彼女のことよろしく頼むね。」
 「はい」
  なんだ。高尾め。彼女と一緒にいるんじゃないか。そう言えばいいのに。俺は高尾の行動の速さにちょっと驚いた。俺はすぐにメールした。
 “お前、今遠田と一緒におるっちゃろ?”
 “うん。あ、そうやった、お前に言うの忘れとった”
 “それはいいっちゃけど、二人で何しようと?”
 “撮影機材の買出しでヨドバシに来とる。実は土曜日の件はさっき聞いたっちゃ”
 “それが目的で連れ出したんやろ?”
 “わかる?”
 “わかるくさ!”
 “彼女今何しようと?”
 “デジカメいじってる”
 “まぁとにかく土曜頑張れよ”
 “うひひ”
 “なんがうひひか”
 日曜の報告が楽しみだ。俺とのドライブは無期延期だなと俺は安心した。

スポンサーサイト

PageTop

千の灯火(ともしび) 第13回

 雷山を下りた俺たちは昼食をとった後、百道の図書館に寄った。午後はここでたっぷり調べ物をする予定だった。この図書館はいつも利用者が多かったが、その日の混雑はそれほどでもなかった。俺は二階の机を一箇所確保して、本を探し始めた。
 遠田がなかなか二階に上がって来ないので不思議に思ったが、どうも一階で知人に会ったみたいで話し込んでいた。
 俺は図書館の雰囲気というのが昔から好きだった。静かなので人が周りにいても自分だけの世界に入ることができる。ここで調べ物に没頭している間は俺の精神状態も安定していた。自分が重荷を背負って生きていることをほんのしばらくだが忘れることができた。どういう形にしろ自分をごまかす環境が俺には必要だった。図書館以外にも見つけないといけないと思った。
 しばらくして遠田が二階に上がって来た。
 「すいません。前の会社の同僚に会って・・・」
 「その人もキャビン・アテンダント?」
 「そうです」
 彼女の声が少し暗かった。
 「どうした?あんまり気の合う同僚じゃなかった?」
 「いいえ、同期入社で仲が良かった子です」
 俺は今までずっとお互いの世界に入りこまないようにガラス戸越に彼女と話していたが、その時初めて彼女のことが心配になり、自らガラス戸を開けた。
 「前から気になってたんやけど、前の会社辞める時になんかあったと?」
 彼女は俺の横に座って悲しく笑った。
 「はい・・・ちょっとショックなことがあって・・・いづれお話します」
 何か事件があってまだ気持ちの整理がついてないのだろうと思った。退職の本当の理由もきっとそれに違いない。俺は彼女の心境を考えて、しばらくは追及しないことにした。
 「大丈夫?気分悪いなら先に帰っていいよ。午後も一緒に仕事したって会社には報告しとくけん」
 「いえ、大丈夫です」
 「そう?じゃぁ仏教行事に関する本でいいのがないか探して来て」
 「はい」
 本を探しに行く彼女の後姿はどこか寂しげだった。
 誰しも多少なりとも何かを背負って生きているはずだ。この図書館にいる人の中にも過去を背負って生きている人がいるはずだ。あの窓辺に座っている人はどうだろう?廊下を歩いている人は?外のベンチでくつろいでいる人は?みんな何かしら背負うのだ。長く生きるほどたくさん背負うのだ。死ぬまでおろせないのだ。結局はそういうことだろうな。俺の苦しみも他の人から見れば、八月に一つ大きなものを背負ったというだけにすぎないのだ。海辺の砂の数ほどある世の中の悲しみの中のほんの一粒に過ぎないのだ。 みんなすごい。乗り越えて生きている。乗り越えられずに自殺する人もいるけど、ほとんどの人は乗り越えているわけだから、俺にも乗り越えられないわけはないのだ。強く生きないといけない・・・俺の頭の中でそんな思考が走った。
 あの事故で肉親を失った人たちは今頃どうしているだろうか?遺族の会に連絡すれば誰かと連絡とることはできるだろう。でも俺はあの会との接触をずっと避けてきたので、今更連絡するのも気が引けた。
 「内田さん?」
 すぐ横に遠田が戻って来たのを俺は気付かなかった。
 「ん?」
 「どうしたんですか?なんかすごいくらーい顔してましたよ。内田さんこそ大丈夫ですか?」
 「うん。ちょっとぼーっとしとった。本あった?」
 「これはどうですか?」
 彼女は抱えていた数冊の本を机の上に置いた。
 「いいねぇ。よしよし。それじゃ『御経会』について書いてあるところ見つけてノートにうつして。由来とか歴史とかね」
 「おきょうえ?」
 「そう。御経の会って書いておきょうえ。五月にある行事やけどね。御経を開いてぱらぱらっとめくるんよ」
 「へー。そういうのがあるんですか」
 「五月になったら千如寺で見れるよ。俺も何回か見に行ったけど、その行事の意味とか由来とかは全然知らんのよ。ちょっと調べてみて」
 「わかりました」
 誰かと仕事の話をしている時は悲しみも襲ってこなかった。だがそれは打てない投手の球をファールで逃げるのと同じかもしれないと思った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第12回

 打ち合わせの後、観音堂に上がろうとした時に住職に来客があったので、俺と遠田の二人だけで長い階段を登って観音堂に入った。あの圧倒的な存在感の「十一面千手千眼観世音菩薩」は今日も俺たちを黙って見下ろしていた。
 どうも遠田の観音像を見上げる視線はルーブル美術館の絵画を見る人のそれだった。
 「これってどういうしくみなんでしょうね?」
 「組み立て式よ。腕とか首とか、それぞれはずれるようになっとるよ。確か昭和三十年代くらいに先代の住職が解体修理されたんよ。檀家さんや仏師さんもたくさん参加して、一大イベントみたいになったらしい。当時の新聞に掲載されたらしいよ。確か和尚さん今もその切抜き持っとるよ」
 彼女は首が痛くならないかと思うくらい一生懸命見上げていた。
 「この仏像は完璧に重心がとられてるんよ。この大きさで何も支えなしで完璧にバランスがとれてるんよ。すごいよね、昔の日本人の技術は」
 「この二本足だけで立ってるんですか?」
 「そうだよ。どこにも固定されてないよ」
 「すごい・・・」
 「観音像だけじゃないよ。このお寺全体の建築のすごさは何年か前に地震があった時に証明されたよ。あんなに揺れたのに木造の部分は全く被害なしよ。木がきしむものすごい音がしたらしいけどね。どこもなんともなかったらしい。地震の揺れとかも計算されてるんよ。今時の建築の耐久年数って一戸建でせいぜい三十年よ。それがこっちは何百年やけんね」
 「昔の日本人ができたなら、今でもできそうですけどね」
 「真剣にやればできるやろう。まぁ人材は少ないやろうけど。要するに効率が悪いからせんのよ。今では何でも判断基準は金やけんね。儲からないならやらない。たとえ大事なことでも、未来の日本のためになることでも、儲からないならやらない。それが今の日本人よ。だからこういう素晴らしい仕事をする人は今の日本では天然記念物的に少ないと思うよ」
 遠田にも何か共感するものがあったのか、うなずきながら聞いていた。俺は遠田をうながして観音堂を出た。香の匂いを払うかのように爽やかな風が頬をなでた。
 「あ、内田さんいらっしゃい」
 修行中の僧侶とすれ違いざま声をかけられたので振り向くと間須さんだった。ひょうきんな性格でいつも周りを笑わせる間須さんは千如寺の人気者だった。参詣者への寺院内の案内も間須さんが当番の時は笑いがたえなかった。俺も間須さんとは会うたびにからかいあう仲だった。
 「なんだ間須さんか」
 「なんだとか言うし。失礼な」
 「ちゃんと仕事してますか?」
 「してますよ。まったく。私ほど真剣に働いてる人間いませんよ」
 「へー」
 「今日はまたなんですか?きれいなお嬢さんを連れて。私が一生懸命働いてる時にデートですか?」
 「デートです」
 「げ!認めるし!」
 俺たちのやりとりを笑いながら見ていた遠田が割って入った。
 「初めまして。遠田といいます」
 「あ、どうも。間須です」
 「今月からうちに入社した新人ですよ。私のアシスタントです」
 「うわー、こんなアシスタントなら仕事もはかどりますね」
 「はかどりますよ」
 「あ、畜生、また認めるし!」
 小柄な間須さんが袈裟を着て身振り手振りで話す様子が滑稽なので、周りにいる参詣者の人たちもこっちを見て笑っていた。
 「ほら、間須さん笑われてますよ。そこにいるだけで笑いがとれるっていうのも一つの才能ですよ」
 「人をコメディアンみたいに!遠田さん、こんな人と一緒にいたらいじめられるだけですよ。気をつけて下さい」
 「わかりました」
 彼女が笑いながら答えると、「あぁ忙しい忙しい」とつぶやきながら間須さんはそそくさと去っていった。その後姿もどこか滑稽だった。
 「おもしろい人ですね」
 「千如寺専属のコメディアンやね」

PageTop

千の灯火(ともしび) 第11回

 「いやぁだいぶ涼しくなってきたんでほっとしてますよ。街のほうはどうですか?」
 心字庭園が見える座敷でいつものように快活な表情の北村住職が言った。
 「日中はまだ暑いですけど、朝晩は過ごしやすくなりましたね」
 「今年はなんか特別暑かったでしょう?八月とかすごかったですよね」
 「はい・・・」
 「えっと、じゃぁ早速始めましょうか」
 うっかり八月に触れてしまったことを誤魔化すためか、住職は仕事のほうに話を切り替えた。暑い八月。事故のあった八月も暑くて苦しかった。
 一体いつまでみんなにこうして気を使わせるのだろうと俺はちょっと気分が曇った。俺が元通り元気になれば済む話でもないだろう。あの事実の記憶が俺も含めみんなの頭の中から薄らいでいくのを待つしかないというのは、治らない傷を眺めているような気分にさせた。
 「千如寺さんについてですね、『歴史』『文化財』『自然』『行事』『まとめ』という順番で取材を進めていきます。まずは歴史からですね。千如寺の存在を証明する一番古いものはなんですか?」
 「諸説ありますけど、貝原益軒が『筑前国続風土記』に記したところによれば、聖武天皇の勅願によって、清賀上人が寺を建てて霊鷲寺と名づけて、後にそれを千如寺と呼ぶようになったとなっています。そうなると聖武天皇ですから奈良時代に作られたということになります」
 「聖武天皇というと・・・」
 「西暦でいうと七二四年に天皇に即位しています」
 「千二百年以上の歴史はあることになりますね」
 横で聞いている遠田は眼を丸くして驚いていた。俺の耳にかすかに「すごぉい」とつぶやいている遠田の声が聞こえた。
 「ではそこを出発点にして、今に至るまでの歴史を主な出来事でたどっていきましょう。まずおさえておくべきことはなんですか?」
 「ちょっと待って下さいね。以前、寺宝展をした時に作ったカタログにおおよその歴史が書いてありますのでちょっと取ってきますね」
 そう言うと北村住職は席を立った。俺はお茶を飲んで一息つくと、横に座っている遠田を見て「すごかろ?」と言った。
 「千二百年ですか・・・なんか想像もつかない長さですね・・・」
 「それだけの時代を見てきたわけやから、いろんな事件をこのお寺は体験したんよ。全部辿るのは大変やけん、主な出来事だけ拾って記述していこう」
 住職が黒い表紙のカタログを持って戻って来た。
 「お待たせしました。ここの部分から記述があります。博物館の学芸員の方が書いて下さった文章です」
 「主な出来事だけ拾うとすれば、何がありますか?」
 俺が質問すると住職はページを繰りながら「そうですねぇ」と数えている様子だった。
 「まずは鎌倉時代の元寇ですかね。鎌倉幕府の意向で祈祷をしたという記録があります。
それから豊臣秀吉の朝鮮出兵、明治維新の際の神仏分離・廃仏毀釈・・・その間の細かい出来事を入れるときりがないですね」
 「千二百年ですからね」
 遠田はけなげに横でメモをとっていた。住職と俺の会話を聞き漏らすまいと一生懸命だった。
 「このカタログの記述をベースにして、私が図書館で調べて簡単な年表を作ってみます。それを次回お持ちしますのでチェックして頂けますか?」
 「いいですよ。そのほうが早いですね。このカタログは差し上げます。たくさん余っていますから」
 「ありがとうございます。助かります」
 そのカタログには雷山千如寺に伝わる寺宝の数々が写真とともに詳細に解説してあり、巻末に歴史について記述があった。
 遠田はそのカタログを開くと熱心に見入っていた。美しい仏教芸術は彼女を魅了したようだった。異様な真剣さだった。
 「あの、ここに掲載してある寺宝は全てここで見れますか?」
 遠田が質問すると住職ははにかみながら答えた。
 「いえいえ、全部はありません。やはり厳重に保管する必要があるものは博物館にお願いしています。湿気や盗難から守るのもなかなか大変です。でも仏像は全部見られますよ。書状類はあまりここには置いていません」
 「あの、後でまた観音堂に上がってもいいですか?」
 「どうぞどうぞ、いつでもご自由にご覧下さい」
 「ありがとうございます」
 俺が、「打ち合わせ終わったら上がろうか」と誘うとはじけそうな笑顔でうなずく遠田だった。俺はその表情がちょっとかわいく感じてしまった。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第10回

 翌日、俺は遠田をセリカの助手席に乗せて雷山千如寺に向かった。窓を半分開けて走ると風が心地よかった。どこからくるのか、かすかに金木犀の香りを感じた。
遠田は前回千如寺を訪問した時よりも心なしかはしゃいでいた。
 「わー、今日はセリカで行くんですね」
「うん。帰りに図書館寄って、それから直帰したいけん」
「なんか遊びに行くみたい。そうそう、内田さんドライブの約束覚えてますよね?まさか忘れてませんよね?」
 「ん?うん。覚えとるよ」
 俺は言われて思い出した。
 「スケジュール調べてメールするって言ってメールくれないし」
 「あ、いやいや、まだ予定がはっきりせんけん・・・」
 「いつはっきりするんですか?」
 「それもまだわからん」
 「私今度の日曜空いてますから。一応言っておきますね」
 「うん・・・」
 うやむやにできそうにない雰囲気だった。何事もはっきりさせたいタイプかもしれないと思った。俺はそういうやつは苦手だった。
 「本屋でいい本見つかった?」
 俺は話題を変えた。
 「あったんですけど、高くて。今日図書館にも行くんでしょ?その時に探して借ります」
 「遠田は西新やから図書館近くていいね」
 「そんなに近くはないんですけど、自転車で行けばすぐの距離です」
 「図書館よく行くと?」
 「行きます。私結構本読むの好きなんです」
 「へー。何読むと?」
 「純文学が好きです。明治から昭和初期くらいまでの」
 「ほぉ。しぶいね。例えば誰?」
 「堀辰雄とか」
「風立ちぬ・・・か」
 「いざ生きめやも」
 「文学少女なん?」
 「かつては。今は文学OLです」
 こいつは話せるかもしれないと思った。俺は学生の頃から文学きちがいだった?
 「内田さんは文学小説嫌いですか?」
 「俺は三度の飯より文学小説が好きなんよ」
 「え?そうなんですか?」
 満面の笑顔だった。同類を見つけた時の喜びの表情にあふれていた。
 「誰が好きですか?」
 「横光利一とか、国木田独歩とか」
 「国木田独歩は知ってますけど、よこみつ・・・って何書いた人ですか?」
 「横光利一は『蝿』とか『日輪』とか『上海』とか『春は馬車に乗って』とか・・・知らん?」
 「知りません。有名な人なんですか?私もたいがいいろんな人読みましたけど・・・」
 「横光利一は新感覚派の旗手で川端康成が自分よりもすごいと認めた人よ」
 「へー、そんなすごい人知らんとかダメですね」
 「いやいや、無理ないよ。戦争中に国粋主義的な言動や活動が災いしてね、戦後に文壇の戦犯て言われて出版社からも締め出しをくらったんよ。天才作家なのに晩年は不遇の時を過ごして死ぬんよ。まぁそんなこんなで静かに忘れられていったんよ。でも最近また再評価されよるみたいやけどね」
 なんかすごい真剣な眼で俺を見ていた。かなり食いついた様子だった。
 「なんかすごくその人の作品読みたくなりました」
 「普通の本屋にはあんまり置いてないよ。古本屋とかで探したほうがいいよ」
 「内田さん家に持ってます?」
 「あるよ」
 「貸して下さい」
 人に本を貸すのはあまり好きじゃなかった。何回か返ってこなかったことがあったから。
 「すぐ返しますから」
 「いいよ。今度持って来るよ」
 うまく断れず、場の雰囲気に流されてしまった。
 セリカは都市高速から有料道路を経て前原に下りた。そこから田舎道を五分ほど走ると雷山へのなだらかな坂が見えてきた。まわりののどかな風景にはたよりなく飛び交う赤とんぼが似合っていた。セリカは一気に坂を登った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第9回

 千秋はいつも寝る時に豚のぬいぐるみを抱いていた。子どもみたいに思われるかもしれないがこれには二人の思い出があった。二人で行った韓国旅行。南大門市場で偶然見つけたそのぬいぐるみが千秋に連れて行ってくれと語りかけたらしかった。ちょうどいい旅の思い出になるから買って来た。もっとも抱えて帰ってくるのはちょっと恥ずかしかったけど。それ以来、いつもベッドの上にぬいぐるみが座っていた。彼女が寝ていたベッドの左半分の枕のところで彼女が帰って来るのをじっと待っていた。
 夜に一人になるのはとても耐えられなかった。だからと言って他の誰かがいてくれれば解決するという問題でもなかった。この寂寞の恐ろしさ・・・。頭がおかしくなりそうだった。夜の到来も朝同様に怖かった。
 家中をなるべく明るくする。全部の部屋の電気をつけて、音楽を流す。彼女があまり聞かなかったCDを選ぶ。見ないけどテレビもつける。気が紛れるものを探す・・・泣きながら寝るのには飽き飽きしていた。
 仕事のことばかり考えるようにした。明日の予定・・・千如寺の北村住職のインタビュー。その後は百道の図書館に寄って調べ物。高尾は別の仕事で留守だから遠田と二人。そうなるとまたいろいろ聞かれるだろう。千秋のことだけは勘弁して欲しかった。
 それにしても遠田はなんでキャビン・アテンダントを辞めたのだろう?ライターになりたいと言っていた彼女の表情は明らかに「ここは適当に答えておこう」という感じだった。他人のそういうしぐさや表情がよくわかるようになった。人間は傷ついて敏感になっていくのだろうか?何か彼女も訳ありなのかも知れないという疑惑が一瞬かすめた。
 俺は早く眠りにつくために読みかけていた本を探した。鈴木三重吉の「桑の実」。どこに置いたのか、すぐには見つからなかった。あちこち探しているところに携帯電話が鳴った。
 「もしもし」
 「あ、あの、遠田です」
 「おぉ。お疲れさん。どうした?」
 「明日って千如寺さん行きますよね?」
 「行くよ」
 「何時からでしたっけ?」
 「先方十時の約束やけん、会社を九時過ぎくらいに出るかな」
 「高尾さんは?」
 「高尾は別件が入っとるけん来んよ。明日は打ち合わせだけやけん、別に高尾は来んでもいいし」
 「そうですか。えーと、はい、わかりました・・・」
 「じゃ、明日ね」
 「はい。おやすみなさい」
 高尾が来るかどうか気になるというのは何を意味するのか?電話のことを高尾に話したら喜ぶだろうと思った。俺はすぐに高尾にメールした。
 “今メールしていいか?”
 すぐに返事が来た。
 “いいぞ。なんや?”
 “今、遠田から電話があったぞ”
 “なんて?”
 “明日の千如寺の取材にお前が来るかどうか聞かれたぞ”
 “マジで?”
 “マジで”
 “それってどうなんかな?”
 “どうなんやろう?お前のことが気になるんやないか?”
 “そうなんかいな?あの子マジかわいくない?”
 “かわいいね。お前のタイプやろ?”
 “ストライクゾーンど真ん中”
 “飲みに誘ったりしたか?”
 “まだしてない。チャンスかな?”
 “週末誘ってみぃ。”
 “了解!うっしゃー!やるばい!”
 “がんばれ!”
 “お前も来るか?”
 “なんで俺がよ!二人だけで行ってこんか”
 “なんか緊張するな”
 “チャンスの神様は・・・?”
 “前髪しかないやろ?”
 “そうそう”
 俺は高尾の健闘を祈った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第8回

 「あのぉ、私も買いたい本あるんですけど経費で落ちますかね?」
 「仕事で使う本なら落ちるよ」
 「やった。じゃ、買おう」
 「何買うの?」
 「仏教の行事について知っておきたいんで」
 「おぉ、いい心がけやね。千如寺でも『御経会』とか『千日観音祭』とかあるけん、そういうのあらかじめ意味を調べとくといいかもね」
 「はい。でも内田さんに教わったほうが早いかな」
 「まずは自分で調べる。それでわからないことがあったら俺に聞く」
 「はい」
 瀬戸山課長から遠田の教育も任されているけど、ちょっと気が重かった。でも高尾が何かと世話を焼いてくれているみたいだから教育も手伝って貰うことにした。あいつは遠田のことを気に入ったみたいで、喜んで引き受けてくれた。
 彼女は俺と二人になってもプライベートなことには一切触れてこなかった。やはり瀬戸山課長に事情を聞いたのだろう。彼女もそれなりに気を使ってくれているのかもしれないと思った。
 彼女はなぜキャビン・アテンダントを辞めたのだろう?聞いてみたい気もしたがそうなると俺の個人的なことも話す羽目になるかもしれないからやめておいた。
 俺は話しかけられないと話さない男に思われているだろうとは推測できた。
 「内田さんて無口ですよね」
 彼女のセリフでそれが確認できた。
 「そう?」
 「高尾さんはよく話すのに。二人は対照的で面白いですね」
 「俺も学生の頃とかはよくはしゃいだよ。年取って落ち着いてしまっただけよ」
 「まだ思い切り笑ってる内田さんは見たことないです」
 思い切り笑えるように早くなりたいのはやまやまだが。まだ時間かかりそうだった。いや、時間がかかってもいいからそうなれればいいとしみじみ思った。
 千秋と一緒にいた頃は確かに思い切り笑っていた。心の底から人生を楽しんでいた。彼女の存在は俺にとって絶対の安心感であったのかもしれない。母親と一緒にいる子どものように、何も心配しないでただ現実を楽しんでいられた。人間にとって精神的支柱を失うということは安心感を失うことと同じなのかもしれない。俺が毎日感じるのは悲しさや寂しさだけではないような気がした。不安?絶望?何かに怯えるような気持ちも混じっていることは確かだった。家で一人でいる時にそれを感じた。
 「どうしたんですか?黙っちゃって」
 「ん?いや、別に。じゃぁ遠田がなんか思い切り笑えるようなネタをくれよ。もう高尾のネタじゃ笑えんけん」
 「わかりました。なんかネタ探しときます」
 彼女は微笑んだ。運転しながらちらっと見たその笑顔は無邪気だった。
 「千如寺は、まず何から始めます?」
 「何からって?」
 仕事の話になったので俺は安心した。
 「歴史とか、文化財とか・・・」
 「うん。まずは歴史からいこうかね。北村住職にお借りした資料であらかたの歴史は把握できるけど、『元寇』とか『朝鮮出兵』とか『廃仏毀釈』とか、千如寺が関係した歴史的事件について詳しく書いてある資料もいるね」
 「インターネットで調べたらだめなんですか?」
 「いいよ。でもネットの情報はたまに信用できない時があるけん、確認のためにはやっぱり書籍が必要なんよ」
 「そうなんですか」
 「ウェブ上の情報って誰でもすぐに掲載できるやろ?あまりに手軽すぎるけんよく調べないで載せてる場合もあるんよね。その点、出版するということになると手間も時間もお金もかかるからみんな結構慎重になるんよね。情報もきちんと調べてから書くし」
 「そういう意味ではインターネットの情報ってまだまだなんですね」
 「過渡期にあるね。完全に信用を置くにはまだ早いよ」
 車は博多駅に着いて、俺たちは本屋に入った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第7回

 いつも仕事は六時に終わった。スケジュールが逼迫しない限り残業はしなかった。、残業代は出ないのでほとんどの社員は定時で帰った。また会社もそうするように奨励していた。思えばいい会社に入ったもんだ。地方の中小企業なんてサービス残業も義務のところが多かったから。
 会社が大手門にあるので地下鉄通勤をする社員が多かった。赤坂駅と大濠公園駅のちょうど中間くらいなのでどちらからも乗れた。高尾や瀬戸山課長は赤坂駅から乗る。だが週に一回か二回は赤坂駅を通り越して大名の飲み屋街に入って行った。俺もかつてはそのうちの一人だったが、千秋のことがあって以来、すぐに帰るようにしていた。車通勤なので酒が飲めないというのもあるが、飲みに行くと必ず慰められるし、涙もろくなるからだんだん酒の席から遠ざかるようになっていった。
遠田の歓迎会が彼女が入社して最初の週末にあったがそれも行かなかった。
 雷山千如寺に挨拶に行ってからとにかく資料集めに走った。その日も帰りに本屋に寄る予定にしていた。駐車場で車に乗ろうとしたところに遠田が近づいて来た。
 「内田さん、もう帰るんですか?」
 「帰るよ。ちょっと本屋に寄ってからね」
 「私も一緒に行っていいですか?本屋に行きたいんで」
 「家どこだっけ?」
 「西新です」
 「じゃぁ反対やん」
 自分で言っておきながらちょっと冷たかったかなと思った。
 「・・・どこの本屋に行くんですか?」
 「博多駅の」
 「じゃぁ行きましょう。私地下鉄で帰りますから」
 「いいよ」
 方向が違うのに一緒に行きたがるのは何か個人的に聞きたいことか話したいことがあるのだろうと推測できた。千秋のことじゃなければいいがと思った。
 「わー、かっこいい。これなんていう車ですか?」
 「セリカだよ」
 「高いんでしょ?」
 「いや、中古だよ」
 「あ、マニュアルですか?」
 「そう。今時珍しいやろ?だいぶ探したよ」
 「車好きなんですね」
 「うん。もう今は車は移動手段になってしまったけど、俺はやっぱ運転を楽しみたいんよね。だけん、マニュアルなんよ」
 「これ速いですか?」
 「速いよ」
 「スポーツカーにしては乗り心地がいいですね」
 「シートがいいけんね」
 「快適ですね。わー、目線が低い。すごーい」
 「すごーいって、こないだ千如寺行った時に乗ったろうもん」
 「あの時は会社の車でしたよ。覚えてないんですか?」
 「え?あ、そうか」
 「これで千如寺さん行ったならもっと私はしゃいでますよ」
 運転しているから彼女の表情は見ていなかったが、声がすごく楽しそうに車内に響いていた。
 「そしたら今度ドライブにでも行くか?」
 「ほんとですか!?」
 俺は思わず出た自分の言葉に焦った。
 「行きましょう!いつ行きます?」
 つい人を喜ばせることを口走ってしまうのは俺の悪い癖だった。
 「でもいく暇がないねぇ。いろいろ調べ物もあるし・・・」
 俺は慌てて防衛線を引いたが、
 「私は助手ですよ?一緒に手伝いますからドライブもしましょうよ」
 簡単に突破された。
 「うん・・・じゃ行くか・・・」
 諦めるよりしょうがなかった。
 「今度の日曜はどうですか?空いてます?」
 「日曜か・・・どうやったかいな?」
 何も予定はなかったが、 「あとでスケジュール調べてメールするけん」とひとまず問題を先送りした。
 「わかりました。じゃあメール待ってますね!」
 メールするつもりはさらさらなかった。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第6回

 打ち合わせが終わった後、住職の案内で観音堂に上がった。渡り廊下状になった木の階段を登っていくと上から心字庭園と、さっきまでいた座敷が見えた。遠田は持参したデジタルカメラで何枚も写真を撮っていた。高尾がアングルのアドバイスをしていた。
 観音堂には一メートルくらいの壇があって、正面と両側に上り口がある。俺たちは正面に向かって右側のほうに案内された。そして五メートルはある大きな木戸の前に三人並んで正座した。住職はおもむろに大きな太鼓をたたき始める。するとお弟子さんが出てきてその大きな木戸を開ける。重厚に軋む音をたてて木戸が開くとあの千手千眼観世音菩薩が現れる。横を見るとかなり驚いている遠田の顔があった。思わず声を上げそうな様子だったが厳粛な雰囲気だったので我慢しているのがわかった。
 住職は短い御経を唱えた後、説明してくれた。遠田は真剣なまなざしで観音像を見上げていた。
 「本尊様です。十一面千手千眼観世音菩薩というのが正式な名称です。重要文化財に指定されています。高さは約四・六メートルあります。成務天皇四十八年、西暦で言うと一四八にインドの僧、清賀上人が一刀三礼して謹刻したと伝えられています。十一面というのは、頭をご覧頂くとわかりますが、小さい顔がたくさんありますね。それと千手というのは後にたくさん手のひらがついています。その手のひらをよく見るとそれぞれに眼がついています。それで千手千眼になります」
 「すごい・・・」
 遠田は言葉もない様子だった。
 「その両側にあるのが持国天の像と多聞天の像です。高さは約一・七メートル。この二天像は以前福岡市博物館で展覧会が開かれた際に解体修理が行われましたが、多聞天像の中から銘文が見つかり、正応四年、西暦一二九一年に作られたということがわかりました。それが見つかった時は大騒ぎでした。仏師さんから電話がありましてね。その頃はまだ私の父が存命で、先代の住職をしておりましたが大変喜びましてね」
 「二天像も文化財ですか?」
 ずっと住職の説明に聞き入っていた遠田だったが、好奇心にはちきれそうな表情で初めて質問した。
 「二天像は福岡県指定文化財です。これくらいの大きさだと運搬が可能なのでこの二つはあちこちの展覧会にちょくちょく登場しています。でも運び出すのは一苦労ですけどね。内田さんにもお手伝いして頂いたことがありましたね」
 遠田の視線は急に俺のほうに向いた。どうなんだ?という表情だった。
 「あの時は大変でしたね。運送会社も専門のスタッフが来ましたもんね」
 「どうやって運び出すんですか?」
 遠田は俺のほうを見て質問するから俺が答えた。
 「外せる部分は外して、全身に包帯みたいに布を巻いて担架で運び出すんよ」
 「なんか怪我人みたいですね」
 「病人より大事に運ばないけんとよ。ほんとにゆっくりゆっくりね。一日がかりの大仕事よ」
 住職は「じゃぁ裏にまわりましょうか」と俺たちを観音像の裏手に案内した。そこには高さ一メートルくらいの仏像が観音像の後方を守るようにずらりと並んでいた。
 「これが眷属二十八部衆です。二十八体並んでいます」
 「内田さん、二十八体全部名前言ってみて下さい」
 「言えんよ」
 「嘘ばっかり」
 遠田は子どものような表情で言った。彼女は今初めて俺に馴れ馴れしいセリフを言ったなと思った。
 観音像の裏手からまた別の通路があって、更に上の御堂へ続いていた。そこにはこの寺の開祖、清賀上人の像があった。御堂はかなり高い位置にあるのでここからの見晴らしもよかった。
 「これが清賀上人の像です」
 「日本人じゃなかったんですか?」
 「そうです。インドからはるばる来られたというふうに伝えられています」
 「当時は命がけの旅でしょうね」
 「そうでしょうね。どういうルートをたどって来られたのかわかりませんけど、おそらく何年もかかったんじゃないでしょうかね」
 住職と遠田の会話が続く間、俺と高尾は付き人みたいな状態だった。遠田がこうやって興味を持ってくれることは仕事にもプラスになるからいいことではあるが、俺にとっては知っていることばかりなので少し退屈した。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第5回

 前原市にある雷山の標高は九五五・四五メートル。雷山千如寺はその中腹にある。歴史は奈良時代にまで遡ると言われている。おそらく九州で最も古い寺なのではないだろうか?考えてみればそんなすごいお寺の住職と懇意にさせてもらっているというのはすごいことなのかもしれない。俺が初めてここを訪れてからもう何年になるだろう?今では住職のご家族やお弟子さんたちともすっかり仲良くなってしまった。俺が行くといつも暖かく迎えてくれた。
 車を降りて三門をくぐるとあの大楓の貫禄ある姿が視界に飛び込んできた。その大きさに遠田は感動している様子だった。
 「これ、紅葉したらほんとにすごいでしょうね」
 「そらすごいよ。みんな写真撮りに来るよ。九州の名所として何回もカレンダーになった有名な楓よ」
 楽しそうにしている遠田の面倒は高尾に見てもらうことにして、俺は先に住職を探した。売店の横の入口から声をかけると奥さんが出て来られた。
 「あ、内田さん、どうもいつもお世話になります。住職は今、上の観音堂にいますので呼んでまいります。あがってお待ち下さい」
 「すいません」
 俺はまだ外にいる高尾と遠田を呼んだ。奥さんが俺たち三人を奥の座敷に案内した後、住職を呼びに行った。
 俺たちが通された座敷からは広縁を隔てて心字庭園が見渡せた。今も覚えているが俺が二回目にここを訪れた時に住職がお昼を御馳走してくれて、俺はこの座敷で池を見ながら精進料理を頂いた。まるで高級料亭のような待遇に感動したものだった。
 「ほら、これが心字庭園ばい。こことここが点々たい。こんな感じで心みたいやろ?」
 また高尾が説明していた。重宝するやつだ。
 「いいですねー!私今かなり感激しています」
 高尾は遠田が喜ぶのが自分の手柄のようににこやかに微笑んでいた。こいつ多分遠田のこと気に入ったなと俺は感じた。自分の気持ちを隠しておくなんてできないやつだからすぐ態度に現れていた。
 しばらくして北村住職が座敷に入って来た。
 「やぁ内田さん、ご無沙汰してます。いやいや、なんか慌しくて申し訳ないです」
 「すいません、今回はお電話でお話した件でいろいろとお世話になります」
 「いえいえ。うちのお寺を特集して頂けるとは光栄です。是非よろしくお願いします」
 「こちらこそよろしくお願いします。和尚さん、彼がカメラマンの高尾です。彼女はアシスタントの遠田です」
 二人は頭を下げた。
 「住職の北村です。内田さんにはいつもお世話になってます」
 北村住職は気さくな方でいつも優しさにあふれる温和な笑顔を絶やすことがなかった。宗教の世界において己を鍛える人々はみなこういうふうに優しくなれるのだろうか?きっと多くの人が住職の優しさに救われたことだろうと思った。すがってくる人と一緒に苦しむこと、それは自分の仕事の中で最も重要な部分であるといつか言われていた。住職は俺の悲しみも一緒に背負ってくれた。この人がいなければ俺は多分もっと荒れていたことだろう。住職は俺にとってまさに最後にすがるべき砦だった。
 「街はまだ暑いですけど、ここは涼しいですね。やっぱりだいぶ高いからですかね?」
 高尾が庭からくる涼しい風を感じて言った。
 「平地からするとだいぶ高い位置にありますから、三度くらいは違うでしょうね」
 「いいなぁ。ここに避暑に来たいですよ」
 「どうぞどうぞ。蚊もあんまりいませんし、快適ですよ。ただし冬はつらいですけどね。ここだけ雪国になりますよ。はははは」
 遠田は好奇心に満ち溢れたまなざしで床の間のかけじくやら、襖絵を眺めまわしていた。そんな彼女に気付いた住職が言った。
 「遠田さんはここは初めてですか?」
 「はい。もうさっきからすごい感激してます」
 「上の観音堂は行かれました?」
 「いいえ、まだです」
 「それなら後でご案内しましょう」
 「ありがとうございます」
 高尾が横から割り込んだ・
 「でかくてびっくりするよ」
 俺は早く住職との打ち合わせに入りたかったので、今回の企画書を住職に渡して、「じゃぁ早速ですが打ち合わせに入っていいですか?」と言った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第4回

 せつないとはそもそもどういう意味だろう?辞書で調べてみた。「寂しさ、悲しさ、恋しさで胸がしめつけられる気持ち」「深く心を寄せている」「苦しい」・・・なるほど、まさに絶妙な表現なんだ。俺の状態を表現するのにこれ以上の言葉はなかった。
 その日は高尾と遠田を連れて「雷山千如寺」へ挨拶に行く予定になっていた。アポイントはとってある。三人で会社の車で行くことになっていた。高尾が遅刻しないか心配だった。
 遠田が入社して二日が経過したが、彼女は俺のプライベートに関することを一切質問しなかった。おそらく課長に俺の事情を聞いたんだろう。新人にまで気を使わせて申し訳ない気がした。
 会社への道のり、通勤の車が多い三号線を避けて、都市高速道路の下を通る道をいつも選ぶ。こっちだと十分は短縮できた。福岡サンパレスの前に出るとそこから長浜通りに入り、大手門へ。もう目を閉じていても辿り着けそうなくらい何度も通った道。時々千秋が「天神まで乗せて」と助手席に座った。彼女が勤めていた旅行代理店は博多駅の近くにあった。いつもJRで出勤していたが天気が悪い日は助手席にいた。俺の車の助手席。そこは常に彼女の予約席。そうだ、まだ長い髪の毛落ちてないかな。あるとすれば彼女しか考えられない。その髪の毛のDNAで彼女をクローン再生するか・・・。
 下らない思考を繰り返す間に会社に着いた。高尾と遠田は準備ができていたのですぐに会社の車で出発した。高尾が後部座席に、遠田が助手席に座った。
 「千如寺までどれくらいかかりますか?」
 遠田が質問して来て俺は我にかえった。
 「え?あぁ。そうねぇ、都市高速で行くけん三十分くらいかな」
 「そんなに近いんですか?」
 「いや、近くないけど都市高速と有料道路を乗り継いだら、すぐ近くまで行けると。普通の道で行ったら結構かかるよ」
 「ふぅん」
 高尾は後部座席から顔を出して会話に入って来た。
 「遠田さん、初めて行くと?」
 「はい。私雷山てすごい遠いイメージがあったんで」
 「みんなそう言うよね。今は高速があるけん、逆に高速がない福岡市内を移動するよりよっぽど近いよ」
 「高尾は何回くらい行ったことあると?」
 俺はルームミラーに写る高尾に聞いた。
 「何回行ったかいな?もうかなり行ったよ。大楓が紅葉する頃は毎年行くしね。あれが真っ赤になる時はすごかよ。それとか新緑の頃もいいしね。あとは池があるんやけどそこもいいし」
 「心字庭園やろ?」
 「そうそう」
 「なんですか?しんじって?」
 「心っていう字で心字よ。池の形がね、心っていう形になっとると」
 「へー、すごいですね」
 遠田の反応が嬉しいのか高尾がまた調子に乗り始めた。
 「その池をぼぉーっと眺めるのもいいよ。あの場所は多分、マイナスイオンでまくりやろうね。あとはずーっと階段上っていった所にある観音堂に、でっかい菩薩像があるよ。そりゃすごいよ。初めて見た時はたまげたね。えーと、内田、なんていう仏像やった?」
 「十一面千手千眼観世音菩薩」
 「そうそう。それ。お前そういうのよぉ覚えるよね。遠田さんね、歴史と芸術に関しては内田に聞いたらいいよ。ほんと詳しいよ」
 「そうなんですか」
 遠田が俺の方をちらっと見たが俺は肩をすくめただけで何も言わなかった。
 「あと、ほら、あれなんやった?大きな観音像の裏手にいろんな仏像がずらっと並んでる・・・」
 「眷属二十八部衆」
 「ほらね?すぐ出てくるやろ?内田のことやけん、あの二十八の仏像の名前全部言えるっちゃない?」
 「・・・」
 「絶対言えるはず。言うのが面倒くさいけん言わんのやろ?」
 高尾はいつもこんな調子でしゃべりっぱなしだった。そのおかげで俺が遠田に話しかけないで済むから助かるとその時は思った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第3回

 詳細な打ち合わせに入ろうとしたところで、威勢のいい挨拶とともに会議室のドアが開いた。カメラマンの高尾だった。高尾は大学からの友人で一緒にこの会社に入った。大学の頃から写真の腕はあったから入社してからすぐに認められて、今では社内で彼の右に出るものはいない。
 「おぉ、おはよう。ちょうど今から打ち合わせ始めるとこやけん」
 課長は高尾に座るように椅子を指した。
 「千如寺でしょ?撮りがいがありますねぇ。内田も腕がなるやろう?あの寺はネタには困らんけんね」
 「高尾も千如寺知っとったん?」
 俺は意外な感じがした。
 「知っとるくさ。紅葉がきれいかろうが?何回か写真撮りに行ったよ」
 「おぉそうか、内田も高尾も行ったことあるなら話が早いな。今回の企画はちょっと気合入れてやってくれよ。なんせ一年がかりやけん」
 課長はコピーした書類を俺と高尾に渡した。
 「五回のシリーズの内容だけ指示しとくけん、後の細かいところは内田と高尾と新人さんで決めてくれ」
 「新人さん?中途採用ですか?」
 高尾も俺と同じことを思ったらしい。
 「そう。遠田さんていうけん。二十八歳独身。長身で美人ばい」
 「女性ですか?ほぉ」
 嬉しそうな高尾。こいつは学生の頃からわかりやすいやつだった。
 「もうすぐ来るけど、それはいいとして内容やけど、五回っていうのは、千如寺に関する『歴史』『文化財』『行事』『自然』それとまとめとして『総括』ね。『総括』は最初に持ってきて序章みたいな感じにしてもいいし、最後に持ってきてまとめにしてもいいし、そのへんは任せるけん」
 「わかりました」
 俺は課長の話を聞きながら既に構想が頭の中で広がっていった。
 「そういう内容で進めてもらえばいいけん。後は内田の好きなようにしてくれ。高尾が必要な時はどんどん使ってくれ」
 「俺も腕がなるばい。いっちょいい仕事しましょうかね」
 高尾も張り切っている様子だった。
 「そしたら俺は別の会議があるけん、行くよ。なんか質問ない?」
 俺と高尾は首を振った。
 「OK。そしたら頼むね」
 そう言って課長が会議室を出ようとしたところに、開いたドアから長身の女性が入って来た。
 「おはようございます」
 「お、来たね。この子が遠田さんやけん。よろしくね。こっちがライターの内田。こっちがカメラマンの高尾」
 「よろしくお願いします」
 かわいくお辞儀する彼女を見て高尾はすぐににこやかに反応した。
 「こちらこそよろしく。今から内田と打ち合わせするけん、座らんね。へー、課長が美人て言ったけどその通りやね。中途で入ったと?」
 「そうです。前職が八月末までの出勤で」
 「何しよったと?聞いていいとかいなこんなこと?」
 「別にいいですよ。キャビン・アテンダントです」
 「キャビン?」
 「こいつにはスチュワーデスて言わんと通じらんよ」
 俺が横槍を入れると高尾は不思議そうな顔をして言った。
 「そうなん?スッチーてキャビンなんとかて言うと?へー知らんかった」
 彼女は俺と高尾のやりとりを微笑みながら眺めていた。課長はその様子を確かめてから静かに会議室から出て行った。
 高尾は彼女に興味津々らしく、質問攻めが始まった。
 「どうりでスタイルいいもんね。でもなんでこの業界に入ったと?給料はむこうのほうがよかろうもん」
 「私、本当はライターになりたかったんです。学生の頃、出版社でバイトしたことあって、この業界が初めてっていうわけではないんです」
 「へー、じゃぁ内田が先生やん。よぉーっと習わんね。こいつも面白いやつやけん」
 「はい。よろしくお願いします」
 急に俺のほうを向いてお辞儀されたんでちょっととまどった。とりあえず俺も頭を下げた。高尾は嬉しそうに言った。
 「いいねぇ。これから一年間、三人で楽しくやろうや」
 俺の覚えている限り常に陽気な高尾の性格がうらやましかった。こいつにとっては毎日が楽しいのだろうな。俺には高尾みたいなやつがそばにいてくれることが一番かもしれないと思った。こいつと馬鹿な話をしている時だけはかつての俺に戻れるような気がした。
 さて、悲しみが一休みしている間にどんどん仕事にはまっていこう。俺は高尾と彼女の会話がとぎれたところで二人に打ち合わせしようと言った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第2回

 俺の勤めている会社は出版社で、「ちくし」というローカル情報誌を発行していた。俺はそこでライターをしていた。専門は歴史。毎回なにかテーマを決めて、それについて徹底的に調べて書く。結構まめな性格なのでこういう仕事は好きだった。前回のテーマは立花道雪について。千秋のことがあってだいぶ遅れはしたが、なんとか記事も書き終えて提出した。その日は新しいテーマをもらう日だった。どんなテーマにしてもそれに完全に没頭してしまおう、今は仕事だけが救いだと思った。
 まだ早いオフィスに、すでに瀬戸山課長がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。俺が挨拶しながら入って来たのに気づくとこちらをちらっと見て、「お、内田早いね」と言うとまた新聞に目を戻した。わざと平静を装っているのがわかった。俺のような経験をした部下を持ったらどう接したらいいか、おそらく課長も悩んだことだろう。はじめは慰めたり励ましたりしてくれたが、いつまでもそんなふうに接していると俺がもとのように元気になれないと思ったのだろう。最近は何事もなかったかのように普通にしている。この人には一番心労をかけただろう。申し訳ない話だ。俺のほうも感謝の気持ちを表現したいが何も思いつかなかった。とりあえず今度のテーマで今までに劣らないいい仕事をしよう。瀬戸山課長ならわかってくれる。そう思った。
 「打ち合わせするけん、会議室に来て」
 「わかりました」
 俺はコーヒーをいれると会議室に入った。課長も企画書の束を持って入って来た。
 「今度のテーマが決まったぞ」
 「何ですか?」
 「千如寺って知っとるか?前原の雷山にある古い寺やけど」
 「はい。何回か行ったことがあります。住職の北村さんには懇意にさせてもらっています」
 「そうか。それなら仕事しやすかろう。千如寺についてたっぷり記事を書いて欲しいとよ。いつもよりたくさんね。特集を組むけん。五回のシリーズにして連載するけん」
 「すごいですね。いつから連載スタートですか?」
 「時間はある。ちょうど一年。来年の秋から連載を始めるけん。うまくいけばそのまま本にするかもしれん」
 「でも一年ってえらい長いですね。そんなに必要ですか?」
 「千如寺の一年の行事と春夏秋冬の境内の自然を載せるけん」
 「なるほど」
 そうなると一年以上雷山千如寺に没頭するわけだな、それも面白いかもしれないと思った。
 「面白そうですね。今日から始めてよかですか?」
 「お、張り切ってるねぇ。いいねぇ。今日から始めていいよ。今回は会社も気合入れとるけんね。カメラマンも高尾をつけるよ。あいつが我が社じゃ一番やけん。それとお前も一人で調べ物は大変やろうけん、助手を一人つけるけん」
 「いらんですよ。一年もあるなら」
 課長はコーヒーを飲み干すと顔をしかめながら言った。
 「まぁそう言うな。せっかく予算がついたけん使ってくれ。こないだ入社したばっかりの新人やけん、最初は使えんかもしれんけど」
 そして課長は時計を見上げて、「もう来ると思うちゃけどね」と言った。
 新人が入ったとは全然知らなかった。しかもこんな時期だから中途採用だろう。上のほうのお偉いさんのコネかな?まぁ俺にとってはどうでもいいことだと思った。

PageTop

千の灯火(ともしび) 第1回

 俺にとって新しい朝の訪れは恐怖だった。じわじわと襲ってくる覚醒が何よりも怖かった。俺には逃げ道がないことを毎朝丁寧に知らされて、俺の神経は削られていった。
 暦は九月になったが外はまだ日差しが強かった。千秋が乗った飛行機が消息を絶ったのは去年の夏。いちばん熱いさかりだった。知らせを聞いた時は何も考えられなかった。とにかく暑くて苦しくて、全てがまぼろしのように感じた。それからの一年は文字通り地獄だった。
 家のどこを見ても千秋がいるような気がした。台所に行けば料理をする彼女が見えるし、食卓に座れば向かいに彼女がいる。洗面所で歯を磨いている彼女。ソファに寝そべってテレビを見ている彼女。ベッドの左半分で寝ている彼女・・・。
 よく二人で言い争ったもんだった。「俺が先に死ぬ」「私が先に死ぬ」。残されたほうはつらいからお互い先に死にたかった。結局千秋が勝ったことになる。しかしこんなに早く勝負がつくとは思わなかった。俺は残りの人生を苦しみながら生きるのだ。あらゆる場所で作った想い出がかわるがわる浮かび上がって来て、ほらこんなこともあったぞ、こんなに楽しかったぞと皮肉たっぷりに耳元でささやく。それをただ我慢して聞いていないといけなかった。逃げることはできなかった。
 一体、最愛の人に若くして死に別れた人たちはどうやって立ち直ったのだろう?不思議でしょうがなかった。俺は完全に立ち直る自信はなかった。時間が解決するのだろうか?何年かたてばまた心から笑えるようになるのだろうか?生きる喜びを噛締めることができるようになるのだろうか?希望に満ち溢れ、夢を追いかけ、愛を感じる生活に戻れるのだろうか?とても信じることができなかった。希望も夢も愛もどうでもいい。お金も地位も全部いらないからただ千秋だけを返してくれ。もし神様がいるならそう言って取引したいと思った。
 我ながら女々しいと思った。それまでの俺の性格は前に突き進むことしか頭にないポジティブな人間で、弱気な友人たちを励ます役目をしていたが、ふと気付けば俺よりもマイナス思考の人間は俺のまわりにはいなかった。ほんの一年そこらのことなのにこの変わりようはどうだ。
 深く愛していたからこんなことになるのか?こんなにいつまでも苦しむのか?だったら適当に愛しておけばよかった。適当に愛する?そんなことができようか?愛に段階などない。愛には最上しかない。そうなると愛したこと自体が失敗か。でも愛のない人生なんて意味があるのだろうか?
 哲学的で何のたしにもならない思考・・・。
準備もできたことだし出勤しようと俺は思った。愛車に乗ってオフィスへ向かう。大手門のお濠の前の通りにあるオフィスへ着けば仕事で気が紛れるだろうと思った。
 車に乗るとその閉鎖された空間の中が別世界のように感じた。窓の外には幸せな世界があった。みんな淡々と生きていた。社会も自然もいつものとおり。何も変わっていなかった。だが車の中の俺はどうだ。助手席に悲しみ、後部座席に苦しみと絶望を乗せてみんなで楽しくドライブだ。弁当持ってきたか?
 本当にもうたくさんだと思った。思い切りアクセルを踏んで猛スピードでどこかに激突すればすぐに千秋に会える。そうだ、簡単に会えるぞ。やってみるか?え?どうだ?そんな勇気もないのか?それじゃ救いようがないじゃないか。

PageTop

先まわり

( 事象 )

一 

 上杉のことだからまたいつもの店だろうと思っていたら、今日は熱澗の出る店にすると言ってきた。
 そういえばもう熱澗が欲しくなる季節だなと思った。今年は多少秋の訪れが唐突だった。私はめまぐるしい季節の交替に置き去りにされたようで、少し鼻風邪をこじらせていた。
 上杉とは直接店で落ち合うことにしていた。あいつの言う熱澗の出る店というのは天神の西通りにあるということだった。私は早々に仕事をきりあげて、六時にはオフィスを出た。 地下鉄を降りて五分も歩かないうちにその店を見つけることができた。華やいだ通りの中ではにかむように静かな雰囲気を出しているその店に入ると、上杉はもう奥のこじんまりとした座敷に一人陣取って、手酌で始めていた。
「今日はなんかえらい純和風やねぇ」
 私は靴を脱いで、すでにほの赤くなった上杉の向いに座ると言った。
「寒うなってきたし、たまにはよかろうが」
 酒の追加とつまみを頼んで、少しからまり始めた舌で「最上、今日はおごらしてくれ」と上杉は言った。
「どげんしたとや、おまえ。悩みごとでんあるとか」
「悩みごとっちゅうか、ほら、こないだ話したろうが・・・」
「あぁ、転職のことか。決心はついたとか」
 酌をしながら私が聞くと、上杉は杯の中で小さく揺れる酒を見つめたまま「うん」と頷いた。
 上杉のうかない顔はここ二ヵ月くらい続いていた。彼のやるせなさは今の仕事に対する不満と、飛躍を待つ彼の才能とに起因していた。
 杯を見つめている目を私の方に向けると、「やめろうかなぁ思うとる」 と彼は言った。
「そうか決めたか。で、どうするとや?」
「イベントの企画ばやるっちゅう会社を見つけたっちゃけど、そこに行こうか思うとる」
 そこで上杉は思いきったように一息に杯をからにした。 私は更に酒をすすめながら先をうながした。
「面接とかもう受けたとか?」
「こないだの水曜日に一応受けて、まず大丈夫そうな感じやった」
「そうか、そしたらいいやないか」
 私がそう言うと、運ばれてきた料理を前に上杉の表情は少し明るくなった。
「だいぶ迷うたばってんのぉ。俺はおまえみたいにすぱっと決めきらんけん。おまえんごた性格しとったら二ヵ月も悩まんかろうのぅ」
「ようそねぇ言われるばってん、俺ちそねぇはっきりしとるかのぉ?」
 何をとぼけたことをという感じで上杉は杯を持ったままの手で私を指差しながら言った。
「はっきりしすぎたいね。竹を割った性格てよう言うけどあれたいおまえは。今の仕事に変わる時もそうやったし、二人の女ば抱え込んでしもうた時もすぐ片方を選んだし」
「そん片方とも駄目になったばってんね」
 上杉は私の杯を満たしながら「それにしてんたい」と話題をかえた。
「おまえんごた性格は、まず占いとか信じんやろうのう」
「なんや、いきなり。おまえみて貰うたんか?」
「転職すべきかどうかの。そこの赤坂に有名な占い師がおるったい」
「誰に教えて貰うたとか?」
「うちの会社の女の子やばってんの。ようあたるらしいったい。そいでちょっとね」
 上杉は私が占いのような曖昧なものを嫌うのをよく知っている。それをからかうような表情をしてまるで私に挑んでくるような様子だった。
「それで?なんて言われたとか?」
 彼は座りなおして、からかうような表情をちょっと改めた。
「なんて言われたち思う?占い師も馬鹿にはできんぞ。『あなたは演じる役も舞台も間違っている。』げな」
「なかなか高尚なこつ言うのぉ」
「そやろうが。俺には俺にしかできん役と俺にあった舞台が待っとるてよ」
「そん台詞で転職ば決めたとか?」
「おぉ、決めたとよ」
 私は思わずため息をついてしまった。
「そういうこつで決める方がよっぽど竹を割っとうやないか」
 上杉は口に運びかけた杯を置いた。
「いやいや、おまえは知らんったい。そん占い師がどれだけようあてるか」
「へぇ」
 正直言ってこの時の私は上杉の話を聞き流しぎみに聞いていた。
「信じとらんめぇが。何でん教えてくれるとぞ。今度連れて行っちゃるけん」
「よか、面倒くさ」
 上杉は焼魚をつつきながら、座りかけた目の焦点を私にあわせて憐れむように言った。
「んん・・・さすが現実主義者は違うのぉ。尊敬するばい。おまえにはメンタルクリニックっちゅうもんもいらんやろうのぉ」
 そして横に置いている上着のポケットから四つに畳んだ紙きれをとりだすと「ほら」と私の前に置いた。
「一応、場所書いた紙ばやるけん、ひやかしでんいいけ気が向いたら行ってみぃ」
 それを突き返すのもちょっとどうかと思ったので、私は一応受け取って財布の中に入れた。
「そうそう、そん地図はのぉ、教えてくれた会社の女の子に書いて貰うたちゃばってん、そん女の子は最上ば知っとったぞ」
「おまえの会社の女の子とか知らんぞ俺は」
「ほら、だいぶ前に中洲に行ったろうが。前田が東京から帰って来た時に。あん時その子も偶然その店におったったい。そんで二、三日してからその子が、俺と一緒におったとは誰かて聞いて来たったい」
「教えたとか?」
「まずかったか?写真持っとるか聞かれたけ大学時代に太宰府にみんなで行った時の写真があったけそれば見せたら持って帰りよったよ」
「おぉ、結構もてるなぁ俺も」
 私は人を好きにはなってもあまり好かれることがなかったからその時はかなり悦にひたっていた。
「密かに慕われるとかいいのぉ。羨ましかぁ」
「どんな子や?」
「うちのオフィスじゃちょっと評判の美人ぞ。おまえにはもったいないくらいやの」
 こうしていつのまにか女の話にかわって最初の論旨を忘れて語りあかすのが私と私の大学時代の友人とのおきまりのパターンだった。
 上杉は転職のことはもう頭にはなかったし、はじめに見せたあの深刻そうな顔も三合の熱澗によってすっかり崩されていた。

       二

 またしてもやる気のない体にむち打って取引先の会社を訪問するために天神に出たが、先方が急用で出かけてしまっていたために私のその日の予定にすっかり穴があいてしまった。そのままオフィスに戻るのももったいないような気がして、私は近くの喫茶店で時間をつぶすことにした。
 コーヒーを飲みながら通りを歩く女を眺めていたら、上杉の話に出てきた女のことを思い出した。彼女は上杉に占い師のところへ行くようにすすめたそうだが、彼女もやはり見て貰ったのだろうか?占いで人生の方角を見定めたのだろうか?あんな曖昧なものを一つの道標として参考にしたのだろうか?私にはとても理解できないことであった。
 私は占いを信じる信じないを問題にしているのではなく、それを真に受けて参考にするかしないかが重要であると考えていた。参考にするならするでそれは個人の選択である。だが自分の人生の方角をそれに頼ろうとは思わない。私の歩いていく方角は私が決める、それが私の意見であるし、世間一般もそうであると信じていた。 ところがあの上杉と彼にふきこんだ女とはどうもそのへんで私とは意見が分かれるように思われた。
 通りを眺めながらとりとめもなくそんなことを考えているうちに、
(そうや、ちょっと冷やかしてみょう)
 と、私のいたずら好きな性分がふと私に囁いた。
(どうせ暇やし、オフィス帰る前にちょっと非理論的人生相談と対決してみょうかのぉ)
 私は上杉をうまく操ったその占い師に挑戦するような心持ちで喫茶店を後にし、赤坂へと向かった。
 上杉に貰った地図を頼りに五分程歩くと、目的の"枯衰館"はすぐに見つかった。意外とモダンな雰囲気の小さな店で、特に目立つ看板も立ててないのでただのこじんまりとした雑貨屋かなにかと間違われそうな感じだった。
 ドアを押し開けて中に入ってみても、あの"占いの館"という感じの怪しげな雰囲気もなくこぎれいな店内が余計に占いからかけ離れた様相を呈していた。
 私は昼間だったのでまだ店を開けてないのかと思ったほど店内は静かだったが、「まぁ座らんね」と言う声が突然耳に入って一瞬ぎょっとした。私は私の目の前にさっきからずっと静かに座っていた小柄な老婆に全然気がつかなかった。
 小さな丸テーブルの向こうにショールにくるまった老婆が丸まって座っていた。そして私の方は見ずにテーブルの上を見つめたまま、
「あんた、占いば信じとらんやろ?」
 と、いきなり切り出してきた。 私は老婆に向かい合って座ると、
「なんでわかると?」
 ときいた。
「あんた、わたしゃこれでめし食いよっちゃけ、わかるくさ。あんたが店に入って来た時の疑うとる目でわかるくさ」
 老婆が顔を上げたので初めて私は老婆の顔を見れた。その無表情な目はガラス玉のように冷たく光っていた。 
「占い信じとらん人が何しにきたとね」
 私は返事に困ったが、
「まぁそう言わんといっぺん見てみてくれんですか」
 とりあえずそう答えると、老婆は仕方ないという感じで水晶を取り出すと、その上に手をかざしてしばらくじっと目を閉じていた。
「何ば知りたいとね」
 体はぴくりとも動かさずに老婆は言った。
「そうやねぇ。何ばあてるとが得意やとね、それでいいばってん」
「一応うちは女ん子の客が多いけん、恋愛運ばよぉ見るばってん、それでよかね?」
「いいよ。俺の恋愛運ね。ちょうど今一人やし」
 老婆は薄く目を開けると、水晶に焦点を合わせてだまりこんでしまった。私は途中で言葉を差し挟みたいのを必死でこらえて老婆の予言を待った。
 しばらくして老婆が急に視線を私に合わせて、「あんた、近々旅行するばいね」ときいてきた。
「旅行?するする。さ来週の週末に上高地に行くつもりしとるばってん。よぉわかったねぇ」
「そこで出会いがあるばい。えぇ人ばい。あんたついとるよ」
「出会い?あそう。そらいいねぇ。そら当たって欲しかねぇ」
「あんたそん人大事にせなでけんよ。えぇ人んごたあるよ」
 老婆は手をかざしたままの姿勢でまた水晶に視線を戻すと先を続けた。
「透き通るような水が見えるばい・・・こん水が幸運の象徴やねぇ」
「透き通るような水?」
 その言葉についつい興味をそそられて、信じないと言いながらももっと詳細にききたくなった私は、先を促そうと老婆の方を見たが、老婆は水晶にかざしていた手をひっこめて初めてはっきりと目を開いて私の方を見て、「二千円」と言った。その言い方がもっと聞きたいなら追加料金をとるぞという感じだったので、私はあきらめて金を払って店を出た。
 私が店を出る時は老婆はまた私が入ってきた時と同じように店内の家具の一つになってしまったかのごとく静かに体を丸めて座っていた。

       三

 数日後、私はまた同じ店で上杉と杯をかわしていた。
「透き通るような水がなんかいいらしいて」
「なんじゃ?」
 占い師の所に行った件を持ち出した私を上杉は不思議そうな顔をして見た。
「旅行に行ったら出会いがあって、それがなんか結構いい人でから、なんか幸せになれるっちゅー話やったよ」
「あ、最上先生行きんしゃったね?枯衰館に」
 私は多少照れ臭い感じで頷いた。
「行ってしまった。冷やかしに」
「いやぁ冷やかしにしろよぉ行ったねぇ。おまえがねぇ。へぇぇ。それで?透き通る水がなんて?」
「透き通るような水がなんか幸せの象徴らしいよ」
 上杉は眉間に皺を寄せたまま杯を一息にあけた。
「ふぅぅぅん、透き通る水ねぇ、なんか今度は詩的な予言たい」
「詩的やけどあたらにゃなんもならんよ」
「ま、そうやけどね。でんおまえが旅行するとはあたったたい」
「まぁね。ちょっとどきっとしたばってんね」
 含み笑いを浮かべた上杉はつまみをつついていたはしを私の方に向けて言った。
「そんくらいじゃぁ信用せんていいたいちゃろぉが」
「誰でん半年とか一年の間に一回くらいは旅行しょうもん、今時」
「難しいやっちゃ」
 上杉は手酌で辛口を流しこむと、つぶやくように言った。
 私は自分に対する予言のあたるあたらないよりも、上杉の仕事の方が心配だったので話題をかえた。
「おまえの方はどげんなりよっと?仕事はうまくいきよぉとや?」
 上杉は酔がまわってきてうなだれていた頭を急に持ち上げて言った。
「おれか?おれん方はあん枯衰館のばぁさんのおかげでえらい順調にいきよるよ」
 赤らんだ顔をくずして嬉しそうにしているのを見て、私もつられて嬉しくなるようだった。
「新しいとこはいつから行きよぉとや?」
「もう一週間くらいなるやろか。なんかいい感じや今んとこ。おれにあっとるごたある」
「そうか。あんばぁさんも人の役に立ちよるったい」
「そぉやこた。だけん、おまえもうるさがらんと、運命に正面からぶつかってみぃ」
 上杉は占いを信じてうまくいった自分を誇るかのような言い方だった。
 話題はまた占いに戻ってしまった。
「おれは別に運命を避けとるわけじゃなかよ。ただ信じんだけたい」
「それが避けとぉとたい。現実主義っちゅう仮面ばかぶってから自分をごまかしよぉとたい」
「そしたら占いば信じることが運名に従うことになるとか?」
「まぁ例えばたい、占いも一つの人生の道標と考えてたい」
「すさまじい例えやな。おまえ変な宗教入りそうでこわいのぉ。いいか、おれの言い分は、おれの運命はおれが作るっちゅうことよ。人間努力しだいで人生変えれるとさ」
 さとすように私が言うと、彼も杯を置いてむきになって反論してきた。
「そねぇしておまえが努力して自分の運命を変えていくっちゅうこと自体が、もう運命で決まっとぉとさ」
 私は結論の出ない議論になりそうだったのでそこで強引に話を打ち切った。
「そがん言いよったらきりがないたい。もういい、占いの話は終り」
「そしたら何の話や?」
「決まっとろぉもん」
「女か」
 というわけでまたしても私と上杉の宴は女の話で幕を閉じた。

       四

 数年前に芥川龍之介の"河童"を読んだ時に、私は舞台となった上高地に非常に興味を持った。一人でそこへ出かけて以来その魅力にとりつかれてしまい、何度も行くようになってしまった。今回はもう四回目になる。
 最近は福岡と松本の間に直通の航空便ができたので専らそれを利用している。今回もそれで松本へ降りた後は観光バスに乗って上高地へと向かった。
 十一月というとこのへんではもうかなり寒くなっている。厚着をしてきたつもりだったが、いざ到着して駐車場でバスを降りると身を切るような寒さに迎えられた。さすがに九州育ちの自分にとっては何回来てもこの寒さには参ってしまう。それにいつもなら夏の終りの九月くらいに来るのだが、今回は十一月という九州でも冬の入り口にさしかかる頃に来たものだからまた特にこたえた。
 駐車場の横にはレストランと休憩所と土産物屋と登山者のための連絡所が一緒になったような建物があって、いつもそこでしばらく休憩してから遊歩道に向かうのだが、今回はこの強烈な寒さに多少とまどったせいでいつもより長くくつろいでしまった。
 同じバスには二十人ほど乗っていたが、そのほとんどは私と同じようにバスを降りるとすぐにこの建物に入った。皆一様にこの上高地の寒さにとまどっているようだった。
 私はストーブの横でコーヒーを飲み、体の中から暖まったところで思いきりをつけてザックを背負い、散策道へと向かった。
 穂高山は頂上付近をすっかり白くしていた。林に沿って続く小道を抜けてあの有名な河童橋の上に立ち、穂高山の方角から続いている静かで清らかな流れをしばらく眺めていると、全てを一からやりなおせるような純粋な気持ちが湧いてくる気がした。
 河童橋を過ぎるといよいよ散策道へと入って行った。
 足元一面に自生している笹を保護するかのように木でこしらえた通路がいつもと同じように私を待っていた。乾いた靴音をたててそこを歩く時にはいつもまわりの木立が話しかけてくるようで、自然との一体感が私を感動させてくれる。
 明神池へと向かう私と平行に梓川が歌うように流れていた。その美しいせせらぎの音は普段の生活に疲れた私を慰めるに十分な一種の魔法だった。
 歩いていると少し体も暖まってきて初めほどは寒くなくなってきた。時々登山者や観光客とすれちがい、その誰もが軽く会釈していくのは私の心を暖めてくれた。
 一時間くらい歩くとやっと林がひらけて、古びた茶店のあるところに到着した。いつもならここで一服して行くのだが今回は最初の休憩所でたっぷり英気は養っておいたのでそのまま横切って神社の社務所の方へと向かった。その先には目指す明神池がある。
 時計を見ると午後四時だった。観光客もそろそろまばらになり始めていた。
 愛想のいいじぃさんに拝観料を払って小さな社に手をあわせてから横の小道を抜けて一の池に出た。
 一の池は底まで透き通った水が凍ったように動かないでいた。その上にはまがもが数羽、これも木彫りの置物のように無表情にたたずんでいた。
 池の縁に近づいてみるとまがもの群れが思い出したように動き出して私の方へと寄って来た。観光客にすっかり餌づけされたせいかものおじせずに私の前に集まって水面に何か投げ込まれるのを待っている様子だった。どれも茶色の羽の下には鮮やかな青と白の羽を隠しており、喉の奥でくぐもったハスキーボイスを出していた。
 そのうち二、三羽がふと向きを変えて私の視野から外れていった。すると他のものもつられるようにそちらへと移動していった。なにがあるのかと私がそちらへと視線を移すと、寂しげに座る女がまがもの群れに餌を与える姿が見えた。小さな膝を抱えるようにして座り、まがもの群れと戯れる姿は寂しげにも美しかった。まがもと話している表情はかすかに微笑んでいるようだった。私の口からは無意識に言葉が出てきた「あの、どこから来られたんですか?」。

       五

 林の中の観光道路をくぐるように走る帰路のバスの中で、私は前日の湖での出来事を思い返していた。

「福岡ですか?」
 私は一の池の縁に座り込んだままの姿勢で言った。
「えぇそうです。あなたはどちらから?」
「私も福岡からですよ。なんや、それやったら博多弁で話してんよかですね」
 私が少しリラックスした感じで言うと、彼女もふざけて「よかですよ」と言った。
 博多弁のせいか彼女とは気楽に話せそうだったが、私はいきなり彼女のそばに近づいていくことは避けた。
「今日来たとですか?」
 私が尋ねると彼女はまがもの動きを見つめたまま「そうです。午前中の便で」と答えた。
「あ、そしたら私と同じ便ですね。一人で来たとですか?」
「ふらっと一人で旅行するとが好きで・・・上高地は二回目です」
「私はもう四回目です。いいとこですよねぇここは。九州の自然もいいばってん、ここもなんか何遍もきたくなるとこですねぇ」
「四回?四回とも一人ですか?」
「四回とも一人ですよ、情けないですけど。彼女の一人も連れて来たいですけど、前つきあってた子は誘っても来てくれんやったとです。今は誘う子すらおらんですけど」
「男の一人旅はかっこいいけど、女の一人旅は失恋しとるみたいでなんか寂しい感じがしますね」
 彼女は微笑みながら顔を上げてちらっと私を見て言った。
「黙ってそこに座っとったとこはほんき寂しそうな感じやったですよ」
「そうですか?そしたら黙っとこうかな。ふふふ本当は全然そんなじゃなくて、何も考えてなかったとです」
「さまになっとったですよ、なんか」
 私がそう言うと彼女は照れた様子でうつむいた。
 私はいつしか明るさが若干失われたまわりの自然を見回した。
「どこに泊まっとぉとですか?」
 私が尋ねると彼女もまわりを見回しながら、
「帝国ホテルです」と答えた。
「私も帝国ホテルですよ。お一人なら一緒に食事しませんか?」
 自分にも意外に感じるほど私はストレートに彼女を誘ってしまった。そして彼女もそれを待っていたかのようにすんなりと「あ、いいですね」と承諾してくれた。

 その後帝国ホテルに戻った私と彼女は、何年も前からの友人同士のようなざっくばらんな会話をしながら食事をした。そして今朝、福岡での再会を約束して私はバスに乗った。彼女は私よりも後の便の飛行機だった。
 私は彼女との出会いからの一部始終を思い返して一種の不思議な戦慄を覚えた。それはあの枯衰館の老婆の言葉を思い出したからだ。"旅"、"透き通る水"、"出会い"、くやしいがどれも現実のものになった。だからといって私は上杉のようにあの老婆に感謝する気にはなれなかった。なぜなら確かに結果的には予言通りにはなったが、彼女との出会いは私が彼女に話しかけることによって作り上げた現実であり、再会の約束をしたのも私の判断で生まれた未来であるからだ。
 私は予言の一つ一つを避けることはできた。しかし私は避けなかった。自分で一つ一つ現実へと変えていったのだ。私が右足から歩き出そうが左足から歩き出そうがそれは私が決めることであって、運命によって次は右足からと決められているのではないのだ。
 私は確かに彼女に一目惚れしてしまった。心を奪われてしまった。だが一目惚れするように、心を奪われるようになっていたのでは断じてないのだ。

       六

 明神池の出会いから一年が経過した。あの後、福岡で再会した私と彼女であったが、急転直下恋に落ちて何の迷いもなく結婚してしまった。
 私はありのままの私を好きになってくれる彼女が愛おしく、初めて幸せというものを実感した。そして私は彼女の愛を常にそばに感じる日々を過ごしている。
 幸せを見つけた今となってもあの枯衰館の老婆に感謝する気持ちにはなれない。あれからいろいろと考えてもみたが、やはり現実主義の私としては運命だなんだと考えることすら煩わしくなって、いつしかどうでもよくなっていた。終わり良ければ全て良しというところか。
 上杉は勝ち誇ったように「それみろばぁさんの言うた通りやないか」とさんざん結婚式の時には私をからかっていた。彼女は何の話だと聞きたがっていたが、私が話してあげないので上杉に聞いていた。
 まぁ何はともあれそういうわけで私は一つの幸せを見つけた。それだけで十分だ。
 それもこれもあのばぁさんのおかげ?とんでもない私のおかげだ。
 
 
 
( からくり )
  
 
 最上と飲むけんまたいつもの店にしようか思うたばってん、そろそろ寒うなってきたけ今日は熱澗の出る店にしたばい。
 今年はなんかいきなし秋になったような感じでからくさ、こないだまで暑かったとがなんか信じられんばい。
 最上とは大学の同期でから就職してからもよぉ飲みに行ったりするばってん今日はあいつに相談したかこつがあったけん、俺ん方から電話で呼び出したとよ。
 相談ちいうても大した相談やないとよ。俺の転職のことやちゃけど、もう受けたいとこの面接にもパスしとぅみたいやけん、俺の中ではもう解決しとることやとよ。
 そしたら何で最上ば呼び出すかっちゅうとね、これがちょっとおもしろい話しがあってからくさ、ある女ん子に頼まれたことがあって・・・最初から話そうか?

 その女ん子は浅井ちいう名前で、うちの会社の女ん子の友達でから時々合コンとかに来よったけ俺も前から知っとったとよ。その子が夏前くらいやったかな、俺に相談ばもちかけてきたとよ。
「上杉さん、こないだ中洲の焼き鳥屋で飲みよったでしょ?」 
 喫茶店で彼女は開口一番そねぇ言うたとよ。
「こないだ?あぁ野郎三人でね。東京に行った大学ん同期が帰ってきとったとよ」
 俺がそねぇ言うたら彼女はそれから質問攻撃にはいったとよ。
「上杉さんは一番端に座っとったろ?」
「座っとったよ」
「真ん中に座っとった人だれ?」
「真ん中におったとは・・・最上っちゅうやつよ。」
「その人も大学ん同期?」
「うん」
「同い年?」
「そう」
「どんな人?性格とか、趣味とか」
「どんな人て・・・性格はさばさばしとって曲がったことが好かんで・・・まぁいい性格しとるち思うよ。趣味は旅行やね、あいつは。一人でふらふら旅行するよ」
「彼女とかおると?」
「今おらんよ。なんで?好きやと?」
 俺がにやついて聞いたもんやけん、ちょっと照れてから視線ばそらしよったよ。
「私もあん時焼き鳥屋におったとよ」
「そうね、それで最上ば見て一目惚れ?」
「まぁそんな感じ」
 きまりわるそうな感じがかわいかったばい。
「俺にキューピッドになれち言いたいちゃろ?」
「うまくいった暁には焼き鳥何本でもおごります」
 拝むようにして頼むもんやけん俺もなんか断わりきれんでからくさ、柄じゃないばってんキューピッド役になってやることにしたとよ。
「浅井ちゃん、キューピッドになってんよかけどあいつは結構堅物やから正攻法じゃ多分駄目よ。恥ずかしがるけんデートもされんよ」
「そしたら正攻法じゃないなんかいい方法ないですかねぇ」
 ふざけとぉみたいで実は真剣に悩んどる彼女やったけん、なんか俺もかわいそうになってから、「よし、俺がなんとかしちゃるけん」言うて、いろいろ作戦ば考えてやることにしたとよ。
 それから何日かはずーっと作戦ば考えたよ。
俺の類稀なる脳みそでから考えに考えた末に、ついに天才的な悪だくみば思いついたとよ。それで早速また浅井ちゃんば喫茶店に呼び出して作戦会議ばしたとよ。
「思いつきました?いい方法?」
 店に入ってくるなり浅井ちゃんは飛びつくような勢いできいてきたよ。
「まぁちょっと落ち着かんね。いい方法ば思いついたけん、説明しちゃるけ」
「どんな?どんな?」
 こん時の浅井ちゃんの勢いには参ったばい。そして女一人をここまで真剣にさせる最上がつくづく羨ましゅう感じたよ。
 俺はコーヒーで口を湿らせてから作戦の全貌ば説明してやったよ。
「"占い"ば利用するとよ」
「占い?」
「浅井ちゃん見てもろうたこつある?手相とか姓名とかいろいろあろうが」
「一回手相見てもらうたけど・・・占いでどうするとですか?」
「最上に占いに行かせてから恋愛運ば見てもらうようにしむけるとよ」
「で?」
「そこで言われたことば聞き出してからそん予言通りになるように細工するとよ」
「出会いがないとか、あっても五年先とか言われたら?」
「会社の女ん子に教わった"枯衰館"ちいう水晶占いばするとこがあるちゃけど、俺そこのばぁさんと顔見知りやとよ。もう何回も行ったけんね。それでそんばぁさんに細工しやすいような事ば言うて貰うとよ」
 浅井ちゃんはしばらくあっけにとられたような感じで頭ん中ば整理しよるようやったよ。
「占いで何て言わせるとですか?」
「あいつ十一月くらいに上高地行くとよ。それでそこで出会いがあるっちゅうふうに予言して貰うとよ」
「で?」
「それで浅井ちゃんが先回りして待ち伏せしてから占いの通りになるようにするとよ」
「で?」
「それでシチュエーションは出来上がりたい。あいつは現実主義とか言うて強がっとるけどああいうタイプが実は一番占いとか気にするとよ。不吉な予言とかされるのが怖いけん行きたがらんだけやとよ。占い師に幸せになるて言われたら誰でも信じたくなるやろ?あいつも絶対信じるよ、表面では信じん振りをするやろうけどね」
 俺はここで一息ついて、浅井ちゃんの表情を伺って徐々に理解していく様子ば確認した。
「後はあいつが浅井ちゃんに出会ってどうするかたい。あいつがもし浅井ちゃんになんか感じるものがあれば口説いてくるやろうし、ないならただの旅先での出会いで終わるやろうし、そこは本当に"運"に頼るだけたい」
「そうですね、最上さんが私をどう思うかはわからんですもんねぇ。でも一つ疑問」
 浅井ちゃんは首をかしげたまま俺の顔を見上げてこう質問してきた。
「占いに行かんて言うたらどうするとですか?」
「そこたい問題は」
 俺はここぞとばかりに胸をはって浅井ちゃんに言うてやったよ。
「俺がそこんとこはなんとかするけん。あいつば絶対占い師のとこに行かせてみせるけん、任せんね」

 ・・・ちゅうわけよ。その後俺は枯衰館のばぁさんに話をつけて、今この飲み屋で最上を待っとるとよ。あいつを枯衰館に行かせるためにね。
 もうそろそろ来る頃やろ。お銚子二本くらい頼んどくか。
 あいつを説得する方策をいろいろ考えて来たよ。なんとしてもあいつを枯衰館に行かせないけんけね。今回の俺の転職の成功も占い師の予言通りやったことにしょうか思うとるんよ。
 もし行きそうになかったらとりあえず地図だけでんわたしてからちょっと様子ば見てもうか思うとるんよ。意外と自分で行きたくならんとも限らんしね。
 俺の見たところじゃあいつは絶対占いとか気になってしょうがないタイプなんよ。そこんとこは間違っとらんち思うよ。だけん、絶対浅井ちゃんとの出会いば運命的なもんと思うてしまうよ。そしたら浅井ちゃんにとっては万々歳やし、俺にとってもこの二人がうまくいくとは嬉しい限りや。
 それにしてん、もしこの悪だくみがうまくいったらおもしろかろうや。運命に先まわりして幸せをつかもうとしとる女と、運命に従って幸せをつかもうかどうしようかと迷っとる男のラブストーリーや、なかなか傑作やないか。お、銚子が来たな、冷めんうちに始めてしまおう。最上のやつはまだかいな。

PageTop

ボストン・クーラー

 会社の先輩に、相談事があるので仕事が終わったら飲みに行こうと誘われた。お店はいつもの「BAR是空」。先輩は遠方の客先をまわるらしく、先に行って飲んでてくれと言われたので、仕事を終えた私は西中洲の「BAR是空」のカウンターに一人で座った。軽いカクテルを頼んで先輩が来るのを待つことにした。
 バーテンダーの川井田さんと世間話をしながらカクテルを楽しんだ。三十分を過ぎても先輩は来ない。よほど遠くまで行ったのだろうか。三杯目のカクテルを頼もうかと迷っているところでドアが開く音がした。先輩かと思って振り向くと長身にタイトスカートがよく似合うOL風の女性だった。大企業の社長秘書でも務めていそうな雰囲気だった。颯爽とした身のこなしで私の二つ隣の席に座り、川井田さんに微笑みで挨拶をすると、ずらりと並ぶ洋酒のビンを眺めながら何を飲むか考えている様子だった。膝下の長い足、細くて白い腕、横顔は照明も手伝ってか、昔の女優のポートレイトのように淡く光っていた。その美しさに見惚れている自分に気付いた私は恥じて目をそらした。
 彼女はまだカクテルを決めかねていたが、ふと私が飲んでいるカクテルのグラスを見て、視線を私にあわせた。
 「それは何を飲んでらっしゃるんですか?」
 私は鼓動が早くなるのを感じたが平静を装うのに必死だった。
 「これですか?ボストンクーラーです」
 「どんな味ですか?」
 「飲みやすいですよ。ちょっと飲んでみます?」
 私は初対面なのに大胆にもグラスを彼女のほうに近づけた。あまりに不躾かなと思ったが彼女は何のためらいもなくグラスを引き寄せ、少し口に含んだ。
 「おいしいですね」
 「いろいろ飲みますけど私はこれが一番好きです」
 彼女は川井田さんを目で呼んで、「私もこれ下さい」と頼んだ。ボストンクーラーができる間、彼女との会話ができることに私は喜びを感じた。何を話そうかと迷っている間に彼女のほうから話しかけてきた。
 「カクテルにお詳しいんですか?」
 「いえ、そんな詳しいというほどではないですが、好きなんでいろいろ調べたりしてある程度は勉強しました」
 「自分でもお作りになるんですか?」
 「家でたまに作ります。でもやっぱり素人技ですからね。川井田さんのようにはいきませんよ」
 「おしゃれなご趣味ですね」
 私は会話が軌道に乗ってきたのが嬉しかった。
 「このお店にはよく来られるんですか?」
 会話がとぎれないように私は必死だった。
 「最近知ったんです。友達に連れて来られて。カクテルがすごくおいしくて気に入ったので時々来てます」
 「そうですか。私は職場が近いので仕事帰りによく来ます」
 ここで彼女のボストンクーラーが出てきた。彼女は優雅な手つきで一口飲んで、私を正視せず斜めに視線を避けて微笑んだ。私はそれを見た瞬間、往年の名女優高峰秀子を思い出した。それほどに美しい一瞬だった。
 「待ち合わせされてるんですか?」
 「ええ。会社の先輩とここで飲む約束なんですがまだ来ないんです。ちょうど退屈してたところでした。あなたは?」
 「私は近くで友達と食事したんですけど、私だけちょっとここでカクテル飲んでから帰ろうと思って」
 「そうですか。カクテル飲んでから帰るなんて、おしゃれなことされますね」
 彼女は優しく微笑んだ。私が話しかけることに迷惑は感じていない様子だったので私は話を続けることにした。
 「仕事から解放されておいしく飲みたいので仕事の話ではなくて、趣味の話をしてもいいですか?」
 「賛成です。そのほうがカクテルもおいしいでしょう。どういったご趣味をお持ちですか?カクテルにお詳しいのはお聞きしましたのでそれ以外では?」
 「カクテル以外では文学ですね」
 「あ、私も本読むの大好きです。洋書が多いですけど」
 彼女が反応してきたので私はここぞとばかりに攻勢をかけた。
 「私は両方読みます。洋書は誰の作品を?」
 「ロアルド・ダールとか・・・」
 「いいですね。『someone like you 』なんてよかったですよね」
 「あなたは?好きな作家は?」
 「私は日本人ですけど横光利一とか、国木田独歩とかですね」
 ここから私と彼女の間で文学論が花開いた。おいしいカクテルを飲みながら趣味の話をこんなきれいな女性とできるなんて夢のようだった。私は先輩がずっと来なければいいと思った。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。時計を見るともう彼女と二時間くらい話していた。彼女が時計を見始めたので私も席を立とうかと思ったが、ここで私は一番大事なことを忘れていることに気付いた。
 「あの、お名前うかがってませんでしたね。よかったら教えていただけませんか?これ私の名刺です・・・」
 彼女は私が渡した名刺を見た後、自分の名刺を出そうとしたがそこで彼女の動きがふと止まった。
 「私の名刺、欲しいですか?」
 彼女の表情はいたづらを考え出そうとしている少女のようにあどけなかった。
 「はい。よかったら・・・」
 「じゃぁこうしましょう。私が出す問題に答えることができたら、私の名刺をあげます」
 「クイズですか?いいですよ」
 「ちょっと難しいですよ」
 「どうぞ。クイズ好きですから」
 私と彼女のこういったやりとりをカウンターの向かいで川井田さんは面白そうに眺めていた。
 「ロアルド・ダールをご存知でしたよね?」
 「はい」
 「じゃぁ、『Taste』もご存知でしょ?」
 「もちろんです。あれでロアルド・ダールが好きになりましたから」
 「ワインをあてる話ね」
 「そうです。ブラインドでティステイングしてワインをあてる話です。確か娘さんを嫁に貰うのと、家屋敷を売るのを賭けたんですよね」
 「そう」
 「それで見事にワインをあててしまう。正解は確かシャトー・ブラネイル・デュクリュ1934年でしたよね?」
 「よく覚えてますね。その通りです」
 「で?その作品が何か?」
 「ええ。その作品をヒントにして問題を考えました」
 彼女はおもむろに私のほうに身体を向けて言った。
 「私の好きなカクテルをあてて下さい」
 その言葉を聞いた時、私はどう反応していいかちょっと迷った。これは婉曲な拒絶なのだろうかと。星の数ほどあるカクテルの種類の中から彼女が好きなカクテルなどあてられるはずがない。
 「それは・・・かなり難しい問題ですね・・・」
 「そうです。そう簡単にあげちゃうと面白くないでしょ?」
 無茶な問題だが彼女の表情にどうにも憎めないところがあるので私は何も言えなかった。
 「実は私、今好きな人がいるんです。その人が一番好きなカクテルなんです。それで私も好きになったんです」
 彼女はそう言うと小悪魔的な表情で私の顔を覗き込むようにして言った。
 「『Taste』の主人公はあてましたよ」
 「あれは小説ですから。それにテイスティングしたわけですから少なくともヒントはあったわけです」
 「ええ。ですから私もヒントを差し上げます。そうね。三つあげましょう」
 『Taste』の主人公は味わった後、消去法を使って絞り込んでいく方法で見事にワインをあてた。彼女の三つのヒントで私も同じように絞り込んでいくしかない。だがどこまで絞り込めるだろうか?
 「わかりました。外れてもともとです。トライしましょう。三つヒントを下さい」
 私は覚悟を決めた。どうせあたらないとは思うが近いところまでいけば彼女も同情を示してくれるかもしれない。
 「では一つ目のヒントね。ベースはホワイトラムよ」
 これは大きなヒントだった。ホワイトラムがベースのものなら約二千種類。星の数ほどある中から少なくともそこまでは絞れた。
 「二つ目は?」
 「二つ目のヒント・・・私、レモンが好きなんです」
 レモンを使うということか。なるほど。ホワイトラムがベースでレモンを使うもの。更に絞ることができた。だがそれでも百種類以上はあるだろう。三つ目のヒントが大きな鍵になる。もしいいヒントならもしかすると・・・そういう期待が私の中におこった。
 「では三つ目のヒントをお願いします」
 「三つ目のヒントは・・・ちょっとひねらないと面白くないですね。私、旅行が好きなんです」
 さすがに先の二つのように甘いヒントではなかった。旅行が好き?どういうことだろうか?秘書のようなイメージからすると英語も話せそうな感じだからおそらく海外へ行くのが好きなのではないだろうか?そこまで考えると私にはヒントの意味がわかったような気がした。
 「どうですか?消去法で絞れました?」
 「ええ。絞れましたけど残ったのが一つではないので後は賭けですね」
 「人生には多少の賭けも必要ですよね」
 「確かにそうですね。私も度胸を決めましょう。ここから先は考えてもしょうがない」
 「答えを決めました?」
 「決めました」
 彼女は一瞬間を置いて私を正面から見つめて言った。
 「答えは?」
 「答えは・・・ロングアイランドアイスティー」
 彼女の視線は私から外れて一瞬止まったが、すぐに私を見つめ直して言った。
 「その根拠は?」
 「まずホワイトラムを使うカクテルの数はおよそ二千種類。その中でレモンを使うのがおよそ百種類とみました。ここまではすぐに絞れました」
 「旅行が好きというのはどう捉えました?」
 「旅行が好きで、海外の街をたくさん歩いているということだと解釈しました。つまりカクテルの名前の中に地名が入るのではないかと」
 「なるほど。ではなぜロングアイランドアイスティーなんですか?」
 「他にも地名がついたものはいくつかあります。ブルーハワイやバハマなどです。ですがあなたの洗練された雰囲気がどうもニューヨークという感じがして、それで・・・」
 「ロングアイランドアイスティーに?」
 「そうです。どうですか?あたってます?」
 彼女は思わせぶりにちょっと深呼吸して席を立った。
 「非常に惜しいところではずれでした。でもかなり近いのでまけてあげます。はい、私の名刺」
 「はずれましたか・・・」
 あたるとは思っていなかったがやはり私は少し落胆した。
 「正解はなんですか?」
 私の問いに彼女は、「ふふ」と妖しく笑っただけでドアのほうに向かって歩いて行った。その後姿も映画のワンシーンのようで私は全く間抜けな顔でそれを眺めていた。
 カウンターのほうに向き直ると川井田さんも彼女の後姿を見送っていたのに気付いた。
 「残念。はずれでした」
 「でも名刺を頂いたんですからよかったじゃないですか」
 「ええ。でもヒントがよかったからどうせならあてて驚かしてかっこいいとこ見せたかったですね」
 「あまり考えすぎるからあたらないんですよ」
 「川井田さんでもあのヒントだけじゃ即答は無理でしょ?」
 「いいえ、私ならあの三つのヒントもいりません」
 私は川井田さんの顔をカクテルの酔いもさめるような真剣さで見つめて聞いた。
 「それはどういうことです?では正解をご存知ということですね?」
 「ええ」
 「なんです?正解は?」
 「ボストン・クーラーですよ」
 確かにボストンクーラーもホワイトラムベースでレモンを使う。それにボストンという地名も入っている。だがそれが根拠ならロングアイランドアイスティーでもバハマでもブルーハワイでも同じ条件だ。私は川井田さんの答えが腑に落ちなかった。
 「どうしてそう言い切れるんですか?」
 川井田さんは皮肉っぽい笑いを浮かべて言った。
 「ヒントは四つ出てたんですよ」
 「え?私は聞き漏らしたんですか?」
 「いいえ、確かに聞いておられましたが、それをヒントとは受け取られなかったんです」
 「そのヒントとは?」
 「あの方の好きな人が一番好きなカクテルというのがヒントです。私はそれだけでわかりました。あとの三つのヒントは必要ありません」
 私は未だに全容がつかめない自分にいらいらした。
 「どういうことですか?まだよく意味が・・・」
 そこまで言ったところで私ははっと気付いた。
 「わかりました?彼女はあなたのことが好きなんですよ。あなたが一番好きなカクテルが彼女の一番好きなカクテルということです」
 「でも彼女は今日初めてボストンクーラーを飲んだんですよ?」
 「そうです。だからおそらく今日になって一番好きなカクテルが変わったんでしょうね」
 「なるほど・・・」
 私はとっさにそこまで読めなかったことが非常に悔しかった。なんともかっこ悪い幕切れにしてしまったものだ。
 「ああ・・・私はバカですね・・・ロアルド・ダールの主人公を気取って消去法なんかやる必要もなかったわけですね。かっこ悪い話です」
 「まぁでも名刺をくれたわけですから連絡してあげないと」
 「ええ。メールアドレスも書いてあるので後で早速メールでお詫びします」
 私は嬉しいような残念なような複雑な気持ちで席を立った。そして川井田さんに勘定を払いながらつぶやいた。
 「それにしても先輩どうして今日来なかったんだろう?」
それを聞いた川井田さんはあきれるような表情で私を見て言った。
 「おやおや、まだおわかりになっていませんね」

PageTop

伝言

 一体そこが誰の家で、何の目的で私がそこにいたのかはわからない。玄関を入ると左手に15メートルほどの廊下が見えた。木の床で天井が低く、暗い日本家屋の廊下だった。両側には部屋がいくつかあった。つきあたりにはガラスの掃きだし窓があったが、外の景色は見えなかった。
 ふと、その廊下の右側の部屋から人が出てきた。そして左側の別の部屋に入って行った。私は瞬間にそれが祖父だとわかった。私の祖父は父方も母方も数年前に亡くなっている。今通ったのは母方の祖父だった。私はそこが人の家であるにも関わらず勝手に靴を脱いで上がった。そして祖父の後を追って、左側の祖父が入って行った部屋に入った。するとそこには父方の祖父もいて、二人で楽しそうに話していた。二人の祖父は生前、あまり交流がなかった。今はその垣根もとれて仲良くしているのだなと私は嬉しくなった。二人が自分の目の前で話しているのに、私は二人がもうこの世の人でないことをしっかり認識していた。不思議な感覚だった。死後の世界にいるのかなと思ったが、自分が死んだという感覚はなかった。一時的に迷いこんだだけで、すぐに戻れるという安心感はあった。
 私は母方の祖父に尋ねた。
「お母さんになんか伝言はないね?伝えとくよ」
 そして父方の祖父にも父に伝言はないかと聞いた。だが二人とも生きている人ができないような温かく、優しい笑顔を見せて、一言も言わなかった。そんなものは必要ないのだよ、と言われたような気がした。私の目からはとめどもなく涙があふれてきた。私はそれを流れるにまかせた。

 涙が頬を伝う冷たさで目が覚めた。その日はずっと夕べの夢のことが頭から離れなかった。なぜ祖父たちは何も語らずにただ微笑んでいたのだろうか?その疑問が私の頭の中で絶えず繰り返された。
 祖父たちに生前交流がなかったのは、父方の祖父が母の嫁入りを喜ばなかったからで、母はいつも冷たく扱われていた。私が物心つく頃には父方の祖父は家を出ていたので、私の記憶の中にははっきりと母が苦しんでいる姿を見た記憶はないが、たまに祖父が姿を現した時に、母に一度も目を合わせないことで、私は幼いながらも冷たい空気を感じていた。兄は母に冷たい祖父を憎んでいた。
 そんな祖父が脳梗塞で倒れ、意識のない状態が数週間続いた時には、家族や父の会社の人が交代で看病した。ある日、母と姉が看病の当番の時に母は祖父の手を握り、聞こえるはずのない祖父の耳元でささやいた。
「わたしはもう何も気にしとらんけん、安心してください。なんも心配せんでいいとですよ」
 すると、不思議なことに祖父の閉じた目から大粒の涙が一つ流れた。それを見た母と姉は祖父の枕元で泣いた。

 私は夢の内容を母に電話で話した。母は、
「そうね・・・」
と一言だけ静かに言った。実際母はどう感じたのだろう?祖父たちが何も言わなかったのを寂しく感じたのだろうか?私は母に重ねて問うことができなかった。ひょっとすると母には何かが伝わったのかもしれない。その時の私にはわからなかった。

 母を嫁として認めないかのような接し方をした父方の祖父は、必然的に母方の家族と全くの疎遠になった。私は二人の祖父が同席したところを一度も見たことがない。そして両家の間の垣根はついにとりはらわれることはなかった。父方も母方も祖父母はみな亡くなり、今や父と母が孫に囲まれる生活をしている。

 かつて両家の間に流れた悲しい時間を思い返した時、私の中にふと一つの解答が浮かんだ。そうか。何も言う必要はなかったのだ。二人の祖父が同席して、楽しそうに話している姿を私が見たことを伝えれば、それでよかったのだ。現世でのわだかまりは捨てて、今は仲良くやっているということを、祖父たちは伝えたかったに違いない。だからただ静かに微笑んでいただけなのだ。
 私なりに得た結論を母には伝えていない。おそらく母はこの夢の意図するところを既に察していることだろう。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。